蝕まれていく体
キャッシュ領域へ戻る道のりは、これまでで最も長く感じられた。
アナスタシアを背負ったライラスの足取りは、決して遅くはなかった。それでも、彼女の呼吸が浅くなっていくのが、背後からでもはっきりと分かった。
「保存してある薬草は」
「使い切った。今あるのは、切り傷や打撲用のものだけだ」
焚き火の傍に彼女を横たえながら、ライラスが苦い声で言った。長年の経験で集めてきた知識と道具、そのどれもが、この未知の毒の前では心許なかった。
「アナスタシア、聞こえるか」
俺が呼びかけると、彼女はうっすらと目を開けた。だが、焦点が定まっていない。
「――寒い」
消え入りそうな声だった。真夏のように熱を持った肌とは裏腹に、彼女は震えていた。
[ 神経毒:進行中 ]
[ 症状:体温調節機能の異常、呼吸不全の兆候 ]
デバッグ空間に浮かぶ文言を見るたび、俺の手が震えた。読めるということが、これほど無力に感じられたのは初めてだった。原因は分かる。だが、それを止める手段が、俺たちにはない。
「デバッガーとして、何とかできないのか」
ライラスが、縋るような声で言った。
「――分からない。フラグの書き換えなら得意だ。だが、これは毒物そのものが体内で作用してる。プログラム上のバグとは、多分違う」
それでも、俺は縋る思いでハックを試みた。毒素そのものを対象に、無効化のフラグを立てられないか。中和のコマンドを割り込ませられないか。だが、どれだけ意識を沈めても、手応えらしい手応えは何一つ返ってこなかった。生身の肉体の中で進行する化学的な反応は、システムのフラグや判定とは、根本的に層が違うのかもしれない。
言いながら、俺は必死にデバッグ空間の奥を探った。何か、糸口はないか。何か、彼女を救う手立てはないか。
だが、見つかるのは、刻一刻と悪化していく症状のログばかりだった。
[ 症状:悪化継続中 ]
[ 推定残存時間:算出不能 ]
「算出不能、だと」
その表示に、俺は言葉を失った。
「――カイト」
アナスタシアが、震える手で俺の腕を掴んだ。
「もし、このまま」
「言うな」
俺は、思わず彼女の言葉を遮った。
「まだ何も終わってない。絶対に、何か方法があるはずだ」
それが強がりでしかないことを、俺自身が一番よく分かっていた。それでも、他に言える言葉がなかった。
「――カイト、聞いてほしい」
「言うなって言ってるだろ」
「頼むから、聞いてくれ」
その声には、これまでにない必死さがあった。俺は、唇を噛みしめながら、彼女の言葉を待つしかなかった。
ライラスも、何も言わずにその場に座り込んでいた。長年の経験を持ってしても、目の前の症状にどう対処すべきか、答えを持ち合わせていないのだろう。その無力さが、彼の横顔にもはっきりと滲んでいた。
焚き火の炎が、いつもより弱々しく揺れていた。奈落の夜は、いつも通り静かなまま、確かに、命の灯火が消えかけている現実だけを、容赦なく突きつけてきていた。




