刺客の影
噂は、日を追うごとに輪郭を濃くしていった。
新たな落下者――今度は比較的しっかりと状況を語れる青年だった――から、ライラスが聞き出した話は、これまでで最も具体的なものだった。
その青年は、教国の外れにある小さな町の出身だと言った。些細な諍いから異端の疑いをかけられ、あっという間にこの奈落へ落とされたのだという。まだ状況を飲み込みきれていない様子だったが、道中で見聞きしたことだけは、途切れ途切れに語ってくれたらしい。
「教国の一部で、内々に動きがあるらしい。表向きは公表されていないが、聖職者の中でも限られた者にだけ伝えられている任務、という話だ」
「任務?」
「詳しい中身までは、その男も知らなかった。ただ――『聖女アナスタシアの消息を追う』という言葉だけは、はっきり聞いたと言っていた」
その一言に、アナスタシアの表情が強張った。
「消息を、追う……」
「保護のため、という体裁は取られているだろう。表向きにはな。だが」
ライラスの声には、これまでにない硬さがあった。
「本物の器が見つかった今、教国にとって嬢ちゃんは、もう聖女である必要がない。それどころか、遺物による不正の生き証人だ。放置しておけば、いつ何が漏れるか分からない存在になる」
「口封じ、ということか」
俺が言うと、ライラスは重々しく頷いた。
「俺の勘で言えば――遠くない未来、教国は『保護』の名目で、実際には別の目的を持った人間をここへ送り込んでくる。捜索者の姿をした、始末屋だ」
場の空気が、一気に張り詰めた。
「本当に、来るのか。ここに」
アナスタシアの声は、かすかに震えていた。
「断定はできん。だが、備えておいて損はない話だ」
ライラスは、焚き火の炎を見つめながら続けた。
「奈落は広い。だが、無限ではない。本気で探す気になれば、いずれこの場所も見つかる。時間の猶予がどれだけあるかは、誰にも分からん」
俺は、これまでの戦いを思い返していた。境界維持プロセス、検体保守体、権限監査体――どれも、この世界のシステムが生み出した、いわば「自然の脅威」だった。だが、今度の相手は違う。明確な意志を持って、明確な目的のために送り込まれてくる、人間の刺客だ。
「今までとは、種類が違う戦いになる」
俺が呟くと、ライラスが頷いた。
「その通りだ。相手はおそらく、腕の立つ人間だろう。教国が本気で口封じを図るなら、生半可な者を寄越しはしない。それに――対人戦は、俺たちにとって未知の領域だ。魔物相手のハックが、そのまま通じるとは限らん」
「私のせいだ」
アナスタシアが、絞り出すように言った。
「私さえ、ここにいなければ――」
「その考えはやめろ」
俺は、思わず強い口調で遮った。
「お前のせいじゃない。お前を利用した奴らの問題だ。それを、お前が背負う必要はない」
アナスタシアは、何か言い返そうとして、結局口をつぐんだ。反論する言葉が見つからなかったのか、それとも、反論する気力そのものが残っていなかったのか。俺には判断がつかなかった。
「とにかく、今は警戒を強めるしかない。気配の察知、逃走経路の確保、シグネチャ秘匿の練度を上げること。できることから、一つずつやっていこう」
ライラスの言葉に、二人は黙って頷いた。彼は続けて、キャッシュ領域の出入り口をいくつか見直し、万一の際にすぐ散開できるよう、逃げ込める場所の候補をいくつか挙げていった。長年この場所で生き延びてきた男の、実務的な備えだった。
「一つだけ、はっきりさせておきたい」
俺は、三人の間に漂う重苦しさを断ち切るように言った。
「刺客が来ようが来まいが、俺たちがやることは変わらない。備えて、生き延びる。それだけだ」
「言うのは簡単だがな」
ライラスが苦笑した。
「だが、坊主の言う通りだ。来るかもしれない脅威に怯えて足を止めるくらいなら、今できることを積み上げた方がいい」
アナスタシアは、しばらく黙って火を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「――私も、ただ怯えているだけのつもりはない。何か、私にできることがあるなら言ってくれ」
その言葉には、以前とは違う強さがあった。守られるだけの存在ではいたくない、という意志が滲んでいた。
焚き火の炎が、いつもより頼りなく揺れているように見えた。奈落の静けさの奥に、これまでとは異質な、人間の悪意という名の脅威が、確かに近づきつつあった。




