境界の際で
その夜以来、アナスタシアの様子は目に見えて変わっていった。
口数が減り、視線はどこか遠くを彷徨っていることが多くなった。薬草の仕分けも、水汲みも、これまで通りにこなしてはいたが、そこに以前のような張り合いは感じられなかった。手を動かしながらも、心はどこか別の場所にあるように見えた。
「――大丈夫か」
俺が声をかけても、返ってくるのは短い相槌ばかりだった。
「別に。いつも通りだ」
嘘だとすぐに分かるほど、力のない声だった。ライラスも似たようなやり取りを繰り返していたらしく、俺たちは焚き火の傍で何度か目配せを交わした。無理に聞き出しても、かえって彼女を追い詰めるだけかもしれない。二人とも、そう判断して、しばらく様子を見ることにした。
二日後の夜、事態が動いた。
いつものように焚き火を囲んでいた時、アナスタシアが不意に立ち上がった。
「少し、一人にしてくれ」
それだけ言い残し、彼女はキャッシュ領域の境界近くまで歩いていった。止めようとしたライラスを、俺は手で制した。
「今は、放っておいた方がいい気がする」
「……そうか。分かってるとは思うが、深追いはするなよ」
「分かってる」
しばらくして、俺はそっと彼女の後を追った。遠くから見える範囲で、口は出さず、ただ様子だけを窺うつもりだった。
アナスタシアは、境界の際に膝を抱えて座り込んでいた。この場所特有の、月明かりに似た柔らかい光の下で、彼女の肩が小さく震えているのが見えた。
「もし、本物が見つかったのなら」
独り言のように、彼女が呟いていた。
「私は、何のために――」
声はそこで途切れた。俺は、声をかけるべきか迷った末、結局そのまま歩み寄ることにした。
「聞こえてた」
「……最悪だな。盗み聞きとは」
いつもの刺々しさを装おうとしているのが、逆に痛々しかった。
「聞くつもりはなかった。心配になっただけだ」
アナスタシアは、俺の方を見ないまま、膝の上に顔を伏せた。
「私は、教国にとって都合のいい道具だった。それだけならまだいい。もし本物が見つかったのなら、私はもう、道具ですらなくなる。不正の証拠でしかなくなる」
「証拠なら、消してしまいたくなる。そういうことか」
俺の問いに、アナスタシアは答えなかった。答える必要すらないほど、明白な話だった。
「かつて私は、お前を『バグ』と呼んで切り捨てた。何の迷いもなく、当然のことのように。今、その言葉が、そっくりそのまま自分に返ってきている。こんな滑稽な話があるか」
「滑稽だとは思わない」
俺は、彼女の隣に腰を下ろした。
「怖いんだろう。今度は自分が、切り捨てられる番かもしれないってことが」
「……当然だ」
消え入りそうな声だった。今までの彼女なら、決して認めなかっただろう弱さだった。
「私は、これまで自分の力だけを頼りに、周りを見下してきた。だがその力すら、本物ではなかった。何が残る。何も、残らない」
「そんなことはない」
俺は、思わず口を挟んでいた。
「薬草の見分け方を覚えたのは、お前自身の努力だ。火を熾せるようになったのも、光を制御できるようになったのも、誰かに与えられたものじゃなくて、お前が積み重ねたものだろう」
「そんなもの、聖女の座に比べれば、取るに足らない」
「取るに足らないとは思わない。少なくとも、俺はそう思わない」
アナスタシアは、しばらく黙っていた。やがて、小さく、震える息を吐いた。
「――どうして、そんなことが言えるんだ。お前を切り捨てた側の人間に」
「さあな。自分でも、上手く説明できない」
それは嘘ではなかった。理屈で言葉にしようとすると、どうしてもうまく形にならない何かが、確かに胸の中にあった。
「――一つ、聞いていいか」
アナスタシアが、ぽつりと切り出した。
「もし私が本当に用済みになって、この奈落からも追い出されるようなことになったら……お前は、どうする」
思いがけない問いだった。俺はしばらく言葉を探した。
「追い出される、っていうのがどういう意味かにもよるが……少なくとも、見て見ぬふりはしない」
「随分と、曖昧な答えだ」
「今はそれ以上、はっきりしたことは言えない。悪いな」
アナスタシアは、それきり何も言わなかった。だが、その沈黙は、拒絶ではないように感じられた。
月に似た光の下、二人はしばらく、何も言わずにただ並んで座っていた。答えの出ない問いを抱えたまま、それでも並んで座っていられることだけが、今はせめてもの救いのように思えた。




