同じ日の記憶
噂を聞いた夜から、俺はあの日のことを何度も思い返していた。
駅前ロータリー。赤く光るエラー警告枠。見ず知らずの人間たちと共に、問答無用で引きずり込まれたあの瞬間。
これまで、あの日の記憶は、ただの悪夢のように扱ってきた。細部を思い出すことに意味はないと、どこかで蓋をしていた気がする。忘れてしまいたい記憶の方が多かったし、思い出したところで何かが変わるわけでもないと、自分に言い聞かせてきた。だが今は違った。あの場にいた「見ず知らずの人間」たちの中身を、もう一度、丁寧に洗い直す必要があった。
「――思い出した」
焚き火の前で、俺は不意に呟いた。
「何をだ」
ライラスが顔を上げる。
「あの日、俺のすぐ近くに、ベビーカーを押していた若い母親がいた。転移が終わった直後、彼女は半狂乱になって周りを掻きむしってた。『あの子がいない』『あの子はどこ』って、そればっかり喚いてた」
鮮明な記憶ではない。だが、確かにあった光景だった。転移前は確かにあったはずのベビーカーが、大聖堂に着いた時には、彼女の手元から消えていた。あの時は、自分のことで精一杯で、深く考える余裕もなかった。母親はすぐに騎士に取り押さえられ、どこかへ連れていかれた。それきり、俺はその話を思い出すことすらなかった。
ライラスの声が低くなった。
「ベビーカーというのがよく解らんが、本人は転移してきたのに赤ん坊だけが現れなかった、ということか」
「そうだ。あの時は、混乱の中だったから――最悪の想像しかしなかった」
俺は、あの管理端末で見た文言を思い出していた。「大規模同時接続イベント」「システム過負荷による資格情報の誤紐付け」。俺自身の権限の断片が、あの過負荷の混乱に紛れて、たまたま俺に貼りついた。だとすれば。
「もし、あの過負荷が、人間の転移先そのものを狂わせていたとしたら。俺と同じように、赤ん坊も、母親とは違う場所へ――たとえば、直接教国側が確保できるような場所へ、別々に飛ばされていたとしたら」
言葉にしながら、背筋が冷たくなった。
「穢れのない赤子ほど、力が定着しやすい――そんな理屈が、もしこの世界のシステムにあるとしたら」
俺は、自分でも半信半疑のまま、その可能性を口にした。
「教国が今まで求め続けてきたのが、遺物に頼らない『本物』の器だとしたら。そして、その条件が『穢れのない赤子』だったとしたら。今回の転移で、教国は初めて――」
「初めて、条件に合う赤子を、大聖堂とは別の場所で直接手に入れた、というわけか」
ライラスが引き取るように言った。その声には、これまでにない緊張が滲んでいた。
「規格外の人数を一度に呼び込んだ、あの災害的転移。システムに過負荷がかかるほどの異常事態だったからこそ、普段は決して起きないはずの誤配送が、たまたま起きてしまった――俺の権限の断片と、似たような偶然だったのかもしれない」
「皮肉なものだな。坊主には要らないはずの権限が貼りつき、教国には喉から手が出るほど欲しかった赤子が、同じ日の、同じ事故で転がり込んできた」
アナスタシアは、しばらく何も言わなかった。ただ、両手を強く握りしめている。
「その子は……今、どうなっている」
やがて、絞り出すような声で彼女が尋ねた。
「分からない。確かめる術はない。あの母親が、今どこで何を思ってるのかも」
答えながら、胸の奥がざわついた。あの日、大聖堂の床で半狂乱になっていた母親の姿が、今になって違う重みで蘇ってくる。もし本当にあの子が生きていて、教国の都合で利用されようとしているのだとしたら――死んだと思って絶望している母親と、生きたまま道具にされている我が子。どちらの方が、より残酷な話なのか、俺には判断がつかなかった。
「あの日、俺は『バグ』として切り捨てられた。同じ日に転移してきたその子は、もしかしたら真逆の扱いを受けているのかもしれない。都合よく利用される側として」
「皮肉、だな」
ライラスが呟いた。
「切り捨てられた側と、担ぎ上げられる側。紙一重の差で、運命がまるで違う方向に転がっていく」
「担ぎ上げられる方が、幸せとは限らない」
アナスタシアが、静かに、だがはっきりと言った。
「私が、そうだったように」
その一言に、誰も言葉を継げなかった。焚き火の炎だけが、静かに爆ぜる音を立てていた。
「もしその子を見つけたとして、俺たちに何ができる。無帰の奈落の底から、地上の赤子一人、助け出す手立てなんてない」
自分で言いながら、その無力さに苛立ちを覚えた。
「今すぐに何かができるわけじゃない。それは分かってる」
ライラスが静かに言った。
「だが、知らないままでいるのと、知った上で何もできないのとは、意味が違う。少なくとも俺は、そう思って生きてきた」
その言葉には、二十数年分の重みがあった。かつて彼が見過ごしてしまった、幼いアナスタシアの鑑定結果。知っていながら動けなかった悔いが、今もなお彼を動かしている。
「――そうだな」
俺は小さく頷いた。今はまだ、何もできない。それでも、目を逸らさずにいることだけは、できるはずだった。
確証はまだない。だが、点と点は、もう疑いようもなく一つの絵を描き始めていた。まだその子に会ったことすらない。それでも、遠く離れたどこかで、自分と同じ日に切り離された小さな命の行く末を、俺は初めて、他人事とは思えない重さで想像していた。




