完全な器
管理端末で得た事実を消化するのに、それからさらに数日を要した。
三人とも、口数は少なかったが、気まずい沈黙というわけでもなかった。それぞれが、自分なりの形で今回の発見と向き合っている――そんな静けさだった。俺は暇を見つけてはデバッグ空間に意識を沈め、あの管理者権限の断片について、もう少し詳しく調べられないか試みていた。だが、あれ以上の情報は、そう簡単には出てこなかった。端末そのものが、これ以上の閲覧を拒むように沈黙している。焦っても仕方ないと分かってはいたが、もどかしさは拭えなかった。
変化があったのは、キャッシュ領域に新しい落下者の気配が届いた夜だった。
「また誰か、落とされてきたらしい」
ライラスが、遠くの物音に耳を澄ませながら言った。長年この場所で生きてきた男の勘は、こういう気配の察知には抜きん出ている。
「行くのか」
「ああ。生き延びられそうなら、少し話をしてくる。運が良ければ、地上の噂も拾えるかもしれん」
「気をつけてくれ」
「今更、心配してくれるとはな」
軽口を叩きながらも、ライラスの足取りには、いつもよりわずかに慎重さが滲んでいた。俺たちも、こうして誰かが新しく落とされてくる度に、複雑な気持ちにならざるを得なかった。かつての自分たちと同じように、理不尽に切り捨てられた誰かが、また一人、この場所に加わったということだからだ。
その夜遅く、ライラスは一人で戻ってきた。焚き火の傍に腰を下ろすと、いつもより重い調子で口を開いた。
「新参者は無事だった。まだ気が動転していて、詳しい話は聞けなかったが……その道中、別のところで小耳に挟んだ話がある」
「聞かせてくれ」
「教国が、ついに『完全な器』を手に入れたらしい、という噂だ」
その一言に、空気が張り詰めた。
「完全な器……」
アナスタシアが繰り返す。声に、かすかな震えがあった。
「詳細は分からん。だが、噂の出所は、以前『鑑定の儀の記録』を洗い直していたのと同じ筋らしい。しかも、今回はやけに具体的だった。これまでとは比較にならないくらいの手応えを、教国上層部が得ている、とな」
俺は、あの管理端末で読んだ断片を思い出していた。「遺物経由の非正規の権限昇格、対象:聖女候補、複数名」。あの一文は、単にアナスタシアの過去を裏付けるだけのものではなかった。複数名――その言葉が、今になって重みを増して迫ってくる。
「もしかして……アナスタシア以外にも、同じような手段で作られた聖女候補がいた。そして今回、教国はついに、遺物に頼らない『本物』を手に入れた――そういうことなのか」
「断定はできん。だが、あり得ん話でもない」
ライラスの声は、いつになく硬かった。
「本物、か」
アナスタシアが、自分の両手を見下ろしながら呟いた。
「私は、遺物で底上げされた、まがい物だ。もし本物が見つかったのなら……」
その先を、彼女は口にしなかった。だが、続く言葉は、聞かずとも分かる気がした。
「まだ、何も確定してない」
俺は、努めて平静な声で言った。
「噂は噂だ。ここで悪い方に考えを進めても、何も変わらない」
「分かっている。分かっているが……」
アナスタシアは、そこで言葉を切った。焚き火の炎が、彼女の横顔に複雑な陰影を落としている。
「もし、その噂が事実だとして」
俺は、あえて先の話を続けた。
「教国が本物を手に入れたなら、次に何をすると思う」
「さあな」
ライラスが低く答えた。
「まがい物を、いつまでも表舞台に置いておく理由はなくなる。それだけは、はっきりしている」
その言葉の意味するところに、三人とも、それ以上は触れなかった。触れずとも、誰もが同じ不安を共有していることだけは、痛いほど伝わってきた。
俺自身、確信めいたものを感じていた。あの管理端末の記録と、今夜の噂。二つの点が、静かに線を結ぼうとしている。その線の先に何があるのか、まだ誰にも分からない。だが、これまでのように「噂は噂」と割り切ってやり過ごせる段階は、もう過ぎつつあるのかもしれなかった。
「本物というのが、一体どんな相手なのか。せめて、それだけでも分かればいいんだが」
ライラスが呟いた言葉に、俺は答えを持ち合わせていなかった。年齢も、性別も、素性も、何一つ分からない。ただ、教国にとって都合のいい『器』として扱われている誰かがいる、という事実だけが、輪郭のないまま重くのしかかってくる。
「見つけ出して、どうする」
アナスタシアが、低く尋ねた。
「まだ、何をするとも決めてない。今は、知ることだけで手一杯だ」
正直な答えだった。守るべきなのか、放っておくべきなのか、そもそも自分たちにできることがあるのか――何一つ、まだ見えていなかった。
奈落の夜は、今夜もいつも通り静かだった。だが、その静けさの中に、これまでとは違う種類の緊張が、確かに忍び込み始めていた。




