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奈落のデバッガー  作者: ろいぷぅ


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持ち帰ったもの

 警報レベルの上昇を示すログを背に、俺たちはルート区画からの撤退を急いだ。来た道を戻る間、何度か視界の端にノイズがちらついたが、追手らしきものが現れることはなかった。


「――このまま、何もなく抜けられるといいが」


 ライラスの声に、緊張が滲んでいた。幾何学的な柱が並ぶ異質な景色が、次第に見慣れた奈落の木々へと戻っていくにつれ、俺たちの足取りも、少しずつ軽くなっていった。それでも、背後を振り返る回数は、誰も減らそうとしなかった。追手の気配は感じられない。それでも、油断していい保証もどこにもなかった。


 道中、アナスタシアは何度か自分の手のひらを見下ろしていた。戦闘の最中に見せた安定した光と、この区画特有の不安定な揺らぎ。相反する二つの感触が、まだ彼女の中で消化しきれていないのが、傍から見ていても分かった。


「――大丈夫か」


「大丈夫だ。ただ、少し、頭の中が忙しいだけだ」


 珍しく、素直な返答だった。以前の彼女なら、強がって「問題ない」の一言で片付けていたはずだ。


 境界を越え、いつもの区画に戻った瞬間、三人はほぼ同時に足を止めた。誰からともなく、深く長い息を吐き出す。


「――帰ってきた、のか」


「ああ。今回は、ここまでにしよう」


 ルート区画そのものの全貌は、まだ何も分かっていない。管理端末跡の奥に何が眠っているのか、権限監査体のような守護者が、他にどれだけ存在するのか。手つかずのまま残された謎は、行く前よりもむしろ増えたようにさえ感じられた。


 それでも、俺たちは確かに何かを持ち帰った。


 キャッシュ領域へ戻り、焚き火を囲みながら、三人は今日得た情報を静かに整理し始めた。


「Read-Only、適性判定:不能、残留リソースの漏出、遺物経由の権限昇格……こう並べると、改めて、とんでもない話だな」


 ライラスが板の写しを見つめながら、低く呟いた。


「俺のステータスが動かせないのは、欠陥じゃなくて、そういう仕様だったってことなのか。だとしたら、なんで最初から、そんな仕様の人間が、この世界に紛れ込んでたんだ」


 誰にも答えられない問いだった。俺自身、自分の輪郭を確かめようとするたび、その輪郭の向こうに、また新しい謎が広がっていくような感覚に囚われていた。恐怖がないと言えば嘘になる。だが同時に、少しずつでも自分の正体に近づいているという実感は、これまでにない種類の手応えでもあった。


「私は……」


 アナスタシアが、焚き火を見つめたまま口を開いた。


「遺物のことを、どう受け止めればいいのか、まだ分からない。与えられた力が、不正な手段によるものだったと知って、腹を立てるべきなのか、それとも」


「それとも?」


「――分からない、と言っている。今は、それだけだ」


 答えを急ぐ様子はなかった。ただ、事実として突きつけられたものの重さを、彼女なりに、まだ噛み締めている最中なのだろう。無理に結論を出させる必要はない、と俺は思った。


「焦らなくていい。今日分かったことだけでも、十分すぎるくらいだ。整理するには、時間がかかる」


 ライラスの言葉に、アナスタシアは小さく頷いた。


「ライラス。お前自身は、どうなんだ」


 俺が尋ねると、彼は一瞬、意外そうな顔をした。


「俺が、何だ」


「聖女候補の中に、数値の伸びが不自然な者がいた、って話だ。それを見過ごしてきたことを、今、どう思ってる」


 ライラスは、しばらく答えなかった。焚き火の炎を見つめる横顔に、これまで見たことのない複雑な色が浮かんでいた。


「――悔いてる、というのが、一番近いだろうな。当時は、才能の差程度にしか考えなかった。だが、今にして思えば、見過ごしていい類の違和感ではなかった。あの頃の俺には、それを疑うだけの覚悟が、足りなかったんだろう」


「今は、違うのか」


「今は、疑う覚悟くらいは、持ち合わせてるつもりだ。少なくとも、嬢ちゃんの前でくらいはな」


 ライラスの言葉に、アナスタシアが小さく、息を漏らすように笑った。あの焚き火の夜に見せたのと同じ、飾り気のない笑いだった。


 俺は改めて、板の写しに目を落とした。ルート区画。まだ奥がある、ということだけは確かだった。今日踏み込んだのは、あくまでその入り口に過ぎない。次に踏み込む時には、今日よりも深く、今日よりも危険な場所へと進むことになるのだろう。


 その覚悟を固めながら、ふと、遠く地上のことを思った。教国では今、何が起きているのだろうか。聖女の代役や後継を巡る噂、鑑定の儀の記録を洗い直す動き――積み残されたまま、奈落の底からは窺い知れない、もう一つの流れ。ルート区画で得た手がかりが、いずれその流れとも交わる予感が、拭いきれずにあった。


「――今夜は、これ以上考えても仕方ない」


 ライラスがそう言って、板の写しを丁寧に袋へしまった。


「明日からは、しばらく身体を休めることに専念しよう。今日みたいな激戦を、続けざまにやれるほど、俺たちは万能じゃない」


「賛成だ」


「……同感だ」


 珍しく、三人の意見が一致した。焚き火の炎を囲みながら、それぞれが今日という一日の重みを、静かに胸の内へ落とし込んでいく。


 奈落の夜は、いつも通り静かだった。だが、その静けさの奥で、少しずつ、確実に何かが動き始めている――そんな予感を抱きながら、俺は炎の揺らぎを、いつまでも見つめ続けていた。


 地上では今も、鑑定の儀の記録を巡る調査と、聖女の代役を囁く噂が、静かに広がり続けているはずだった。奈落の底にいる俺たちには、その詳細を窺い知る術はない。それでも、いずれこの手がかりが、地上の不穏な流れと交わる日が来る――そんな予感だけが、拭いきれないまま胸に残っていた。


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