描画されない場所
板が示す方角へ、俺たちは丸一日をかけて進んだ。これまで踏み込んだどの区画よりも遠く、深い。道中、既知の魔物とは何度か遭遇したが、いずれも三人の連携で危なげなく片付けることができた。
異変に気づいたのは、二日目の昼過ぎだった。
「――何か、変だ」
先を歩いていた俺が足を止めると、ライラスとアナスタシアもすぐに追いついてきた。
「何がだ」
「木が、少ない」
言われてみれば、周囲の景色は明らかに様相を変えていた。これまで奈落を覆っていた鬱蒼とした木々の代わりに、幾何学的な直線を描く岩の柱が、規則正しく並んでいる。自然物とは思えない、どこか人工的な――いや、人工物ですらない、もっと別種の何かが作り出したような光景だった。
「まるで、書き割りだな」
ライラスが呟いた言葉が、妙にしっくりきた。奥行きはあるのに、どこか平板で、実体感が薄い。視界の端を何かがちらつくたび、俺は無意識に目を細めていた。
[ 描画異常を検知 ]
[ 一部オブジェクト:読込遅延 ]
デバッグ空間に浮かんだログを見て、俺は思わず立ち止まった。
「今の、見えたか」
「何がだ。私には何も」
アナスタシアが怪訝そうに周囲を見回す。どうやら、この違和感は俺にしか感知できないものらしい。
「デバッガーにしか見えないものが、この先には多いのかもしれん」
ライラスが低く呟いた。長年、奈落を渡り歩いてきた男の勘が、何かを察しているようだった。
「お前の目が頼りになる。逆に言えば、お前が見落とせば、俺たちには防ぎようがないということでもある」
「分かってる。集中する」
軽口を叩ける空気ではなかった。俺はクロックダウンで思考の流れを緩め、視界の端に走るノイズを一つ一つ拾い上げるように、意識を研ぎ澄ませた。
「足元、気をつけてくれ。地面が、遅れて出てくる場所がある」
「――遅れて?」
俺の言葉に、二人が困惑した表情を浮かべる。だが、次の瞬間、その意味を全員が理解することになった。
アナスタシアが踏み出した一歩の先、本来なら地面があるはずの場所に、一瞬だけ何もない空白が生まれた。彼女の足が、宙を踏むような感覚に襲われる。
「っ――!」
体勢を崩しかけた彼女を、ライラスが咄嗟に支えた。次の瞬間には、地面はいつも通りそこに存在していた。まるで、最初から何事もなかったかのように。
「今の、は……」
「見た通りだ。この辺りは、時々、地面の描画が一拍遅れる。歩く時は、少し慎重に頼む」
俺自身、こんな現象は初めてだった。これまでの奈落は、荒々しくはあっても、少なくとも「そこにある」という前提は揺らがなかった。だが、ここでは、その前提自体が怪しい。
「ルート区画に近づいているからか」
「多分な。板が言っていた『システムの根幹に近い場所』ってのは、比喩じゃなかったのかもしれない」
俺たちは、これまで以上に足元を確かめながら、慎重に歩みを進めた。
しばらく歩くと、今度は視界そのものが一瞬、真っ白に飛んだ。瞬きひとつ分にも満たない時間だったが、確かに景色が途切れた。
「――今、何か光ったか」
「見えなかった」
「俺だけ、か」
立て続けに起こる小さな異常に、緊張が徐々に積み重なっていく。派手な脅威は何一つ現れていない。それでも、じわじわと精神を削られるような、そんな種類の圧迫感があった。ライラスが「格が違う」と言った意味が、身をもって分かり始めていた。
異変は、それだけでは終わらなかった。しばらく進んだところで、アナスタシアが不意に足を止めた。
「――待て」
「どうした」
「力が、変だ」
彼女は自分の手のひらを見つめていた。試すように光属性の力を発動させると、いつもより明らかに不安定な光が、断続的に瞬いていた。まるで、電波の悪い場所で映像が乱れるような、そんな乱れ方だった。
「悪化してる、のか」
「分からない。ただ、いつもとは違う……いや」
彼女は、もう一度力を集中させた。一瞬、光が驚くほど鮮明に、安定した輪郭を結んだ。だが、それも束の間、すぐにまた不安定な瞬きへと戻ってしまう。
「今の、見たか」
「見た。一瞬だけ、やけに安定してた」
「気のせいじゃ、ない。この場所では、私の力が、悪くもなり、良くもなる。両方だ」
アナスタシアの声には、動揺が滲んでいた。これまで彼女の力は、練習を重ねるほど、緩やかにでも確実に安定へと向かっていた。だが、この場所では、その積み重ねてきた実感すら覆されかねない、予測不能な揺らぎに晒されている。
「怖いのか」
俺が尋ねると、彼女は一瞬、否定しかけて――やめた。
「……少し。自分の中にあるはずのものが、自分のものじゃないみたいに、感じる」
権限未検証。彼女自身の力の根っこに眠るその言葉が、今この瞬間、より生々しい実感を伴って彼女に突きつけられているのかもしれなかった。
「無理に使わなくていい。慎重に行こう」
ライラスの言葉に、アナスタシアは黙って頷いた。三人は、それまで以上に密集した隊形を保ちながら、幾何学的な柱が並ぶ異質な景色の奥へと、歩みを進めていった。
俺は歩きながら、自分自身のことを考えていた。デバッガーという特性、書き換え不可能なステータス、そして今なお正体の掴めない「適性:???」。この場所が「システムの根幹に近い」のだとすれば、自分という存在の根っこにあるものも、この先で少しは見えてくるのだろうか。期待とも恐れともつかない感情が、胸の奥で疼いていた。
アナスタシアの力の不安定さも、俺の視界に走るノイズも、きっと同じ根から伸びた別々の枝なのかもしれない。そんな漠然とした予感が、確信に近い形で胸の内に生まれつつあった。
やがて、遠くに何か――柱とも祭壇とも違う、輪郭のはっきりしない構造物のシルエットが見えてきた。近づくにつれ、それが自然の造形物ではなく、かつて誰かの手によって組み上げられたものであることが、はっきりと分かってきた。




