板に刻まれた言葉
焚き火の夜から数日、生活のリズムはそれ以前とさほど変わらないように見えた。アナスタシアは相変わらず光の力の練習を続け、成功と失敗の割合も、目に見えて大きく変わったわけではない。それでも、失敗した時の彼女の顔つきは、以前より幾分か落ち着いたものになっていた。焦りではなく、次はどうするかという分析の色が、そこには滲んでいた。
だが、その水面下で、ライラスは一人、板の解読作業に多くの時間を割くようになっていた。
「――また、これか」
俺が声をかけると、ライラスは老眼鏡代わりの拡大鏡越しに、こちらを一瞥した。手元には、これまで奈落の各所で拾い集めてきた板の欠片が、いくつも並べられている。
「暇なわけじゃない。むしろ、忙しい方だ」
「進んでるのか」
「進んでる、というよりは……見えてはいけないものが、少しずつ見えてきた、という方が近いかもしれん」
その言い回しに、俺は手を止めた。ライラスがこういう慎重な物言いをする時は、たいてい、軽い話ではない。
「見せてくれ」
「ああ。お前にも、確かめてほしいと思っていたところだ」
差し出された板の欠片には、見慣れない文字列が刻まれていた。以前解読した「未参照領域」を示す記述よりも、さらに複雑な、幾層にも重なった構造をしている。
俺はデバッグ空間に意識を沈め、その文字列を読み解こうと試みた。
[ 解析中……未登録用語を検出 ]
[ 参照先:未参照領域よりさらに奥層 ]
[ 名称候補:ルート区画 ]
「――ルート区画」
口にした瞬間、妙な感覚があった。聞いたことのない単語のはずなのに、どこか腑に落ちるような、そんな据わりの悪さ。前世で扱っていたプログラムの、あの独特な階層構造――末端の処理から、根っこの設定ファイルへと遡っていく、あの感覚に似ていた。
「システムの、根っこに近い場所ってことか」
「俺も、そう解釈している。未参照領域や未参照セクタが、システムの『外側』だとすれば、こっちは逆に――『内側』、あるいは『根幹』に近い場所、という位置づけらしい」
ライラスの声には、珍しく緊張の色が滲んでいた。長年、この手の記録と向き合ってきた男が見せる、久しぶりの動揺だった。
「危険度は」
「分からん。分からないから、慎重にならざるを得ない。今までの区画とは、格が違う気がする」
そこまで話したところで、少し離れた場所から声が飛んできた。
「――何の話をしている」
アナスタシアだった。薪の束を抱えたまま、こちらの様子を窺っている。隠すようなことでもなかったが、ライラスは一瞬、言葉を選ぶように口をつぐんだ。
「新しい手がかりが見つかった。まだ、詳しいことは分からないが」
「私にも聞く権利がある」
「権利、な。まあ、その通りだ」
ライラスは板の内容を、簡潔にかいつまんで説明した。ルート区画という未知の場所。そこに、俺の「適性:???」や、彼女自身の力の正体に繋がる何かが眠っているかもしれないという推測。
説明を聞き終えたアナスタシアの表情が、すっと引き締まった。
「――行く」
「待て、嬢ちゃん。危険度も分からない場所だと、今言ったばかりだろう」
「だからこそだ。分からないまま、ここで待っているだけの方が、よほど性に合わない」
迷いのない声だった。以前の彼女なら、こういう場面でも、もっと権高な言い方をしていたはずだ。だが今は、ただ真っ直ぐに、自分の意志を口にしているだけだった。
「置いていかれる理由が、ない。足手まといにはならない――それは、もう証明したはずだ」
先日の遠征で、彼女が実際に足手まといにならなかったことを指しての言葉だった。実際、彼女の言う通りではあった。
「ライラス。お前はどう思う」
俺が尋ねると、ライラスはしばらく、板と俺たちの顔を交互に見比べていた。
「本音を言えば、反対だ。未知数が多すぎる」
「だが」
「だが、置いていったところで、大人しく待っているような性分でもないだろう、この嬢ちゃんは」
ライラスの視線を受けて、アナスタシアは何も言わず、ただ小さく頷いた。それが何よりの答えだった。
「分かった。三人で行く。ただし――少しでも様子がおかしければ、すぐに退く。それだけは、必ず守ってくれ」
ライラスの言葉に、俺たちは頷いた。三人揃っての遠征そのものは初めてではない。だが、明確な目的を持って、未知の脅威が予想される場所へ踏み込むのは、これが初めてだった。
「役割分担は、これまで通りでいいか」
「俺が先行して罠や敵の察知、ライラスが立ち回りの主軸、アナスタシアが側面の守り。基本は変えなくていいと思う」
「異論はない。ただし――今回は、いつも以上に俺の指示を優先してくれ。未知の場所では、経験がものを言う」
「分かってる」
「分かっている」
珍しく、二人の声が重なった。アナスタシアが小さく眉を寄せ、ライラスは口の端をわずかに緩めた。緊張した空気の中に、ほんの一瞬だけ、柔らかいものが混じった。
支度を整えながら、俺は改めて板の記述を思い返していた。「ルート区画」。その響きには、これまでのどの場所とも違う、根源的な重みがあった。自分が何者なのか、その答えに、少しだけ近づけるかもしれない。期待と、それに見合うだけの不安が、胸の奥で静かにせめぎ合っていた。
夜、荷造りを終えた俺は、しばらく眠れずにいた。「適性:???」という表示が脳裏をよぎる。あの見慣れない三つの疑問符の向こうに、何が待っているのか。知りたいという気持ちと、知ってしまうことへの漠然とした怖れが、交互に胸を締め付けた。
隣の焚き火の傍では、アナスタシアが荷物の点検を繰り返していた。何度も同じ場所を確認するその仕草に、彼女なりの緊張が透けて見える。ライラスは板の欠片を布に包み、腰の袋に慎重に収めていた。三者三様の夜だったが、誰も、まだ見ぬルート区画への期待と不安を、口には出さなかった。
翌朝、俺たちは日の出とともに、キャッシュ領域を後にした。これまでとは、明らかに毛色の違う遠征になる――そんな予感を抱きながら、俺は先頭に立って歩き出した。




