焚き火の夜
群れの魔物を退けたあの日から、数日が経った。
アナスタシアの光の力は、あれから何度か発動を試みたが、必ず成功するわけではなかった。十回のうち、まともに形を成すのは二回か三回。それでも、以前のような「完全な空振り」の割合は、確実に減っていた。
「――また、駄目だった」
昼下がり、開けた岩場で一人練習していたアナスタシアが、手のひらを見つめたまま呟いた。俺は薬草採りの帰りに通りかかっただけだったが、声をかけられた以上、無視するわけにもいかなかった。
「さっきよりは、光った時間が長かった気がするけどな」
「気休めはいらない」
「気休めじゃない。事実だ」
彼女は答えず、もう一度手のひらに意識を集中させた。淡い光が滲むように浮かび、けれど形を結ぶ前に霧散する。舌打ちひとつ、聞こえるか聞こえないかの小ささで漏れた。
以前の彼女なら、こういう小さな苛立ちを、もっと大きな声でぶつけていたはずだ。傲慢さの裏に隠れた、認めたくないという意地。だが今は、その苛立ちの矛先が、周りではなく自分自身に向いている。それだけでも、随分な変化だった。
「昼はもう十分だろう。日が傾く前に戻るぞ」
少し離れた場所から、ライラスの声が飛んできた。薬草の選別を終えた彼は、いつものように飄々とした足取りでこちらへ歩み寄ってくる。
「まだ、あと少しだけ」
「明日もある。根を詰めすぎると、かえって精度が落ちるものだ」
「……経験談か」
「まあな。若い頃、そういう手合いを何人も見てきた」
アナスタシアは不服そうな顔をしながらも、それ以上は食い下がらなかった。素直に従うわけではない。だが、頭ごなしの反発でもない。その中間の、ぎこちない妥協のようなものだった。
キャッシュ領域への帰り道、彼女はしばらく無言だった。それが不機嫌さゆえの沈黙ではないことは、この数日で分かるようになっていた。ただ、自分の中で何かを反芻しているだけの静けさだ。
「――なあ」
「何だ」
「今日の分、また記録しておく。何回目で、どのくらい形になったか」
「記録?」
「感覚だけで判断すると、良くなっているのか悪くなっているのか分からなくなる。数字にしておけば、少なくとも嘘はつかない」
いかにも彼女らしい理屈だった。感情論を嫌い、根拠のないものを信用しない。その頑なさは、以前は近寄り難さの一因だったが、今はむしろ、彼女らしさとして受け止められるようになっていた。
キャッシュ領域に戻ると、夕食の支度が始まった。アナスタシアも今では、火の番と食材の下ごしらえくらいは一人でこなせるようになっている。最初の頃、毒草と間違えて青ざめていた姿を思えば、大した進歩だった。
「今日は、また駄目だった」
夕食の片付けを終えたところで、彼女がもう一度、同じ言葉を繰り返した。焚き火の炎が、その横顔をぼんやりと照らしている。
「一日で全部できるようになると思ってたのか」
「思ってない。……思って、なかったが」
言葉尻が、少しだけ揺れた。以前の彼女なら、こんな半端な物言いはしなかっただろう。できないことを認める素振りすら見せず、苛立ちだけをぶつけていたはずだ。
「まぐれでも十分だって言ったの、お前だろ」
「私が言ったんじゃない、あんたが言ったんだ」
「同じことだ」
「違う。細かいことだが、違う」
ライラスが、そんな二人のやり取りを聞きながら、薬草の束を炎の近くで乾かす作業を淡々と続けていた。口を挟むでもなく、ただ、その光景を眺めている風だった。
「――ライラス。お前は、何百回とこの手の指導をしてきたんだろう」
「まあ、それなりにな」
「できるようになるまで、平均でどれくらいかかる」
「個人差だな。答えになってないのは承知の上で言うが」
「……役に立たない答えだ」
「そう言うな。分からんものは分からんと言ってるだけだ」
アナスタシアが小さく息を吐いた。呆れたような、それでいて怒っているわけでもない、そんな吐息だった。
俺は少し離れた場所で、拾ってきた木の枝を焚き火にくべながら、二人のやり取りを眺めていた。三人でこうして火を囲むのも、もうすっかり見慣れた光景になっている。
「――そういえば」
不意に、アナスタシアが口を開いた。
「あんたは、こっちに来る前は何をしていた」
唐突な問いに、俺は少し面食らった。彼女がこういう、雑談めいた話を自分から振ってくるのは、これが初めてだった気がする。
「普通の会社員だった。特に語るようなことも、なかった」
「――会社員?」
「働いて、給金をもらって生活する、ただの一般人ってことだ。剣も魔法も使わない」
「想像がつかない。今のあんたからは」
「そりゃそうだろ。あっちじゃ、地形を書き換えて敵を倒したりはしなかった」
俺の答えに、アナスタシアが小さく、本当に小さく――息が漏れるような音を立てた。それが笑い声だと気づくまで、少し時間がかかった。
「……何がおかしい」
「いや。想像すると、少し」
言い切らないまま、彼女はまた同じ音を立てた。取り繕うでも、隠すでもない、素のままの反応だった。皮肉でも、見下すような響きでもない。ただ、純粋におかしかったから漏れた、それだけの笑いだった。
ライラスが、手を止めずにこちらをちらりと見た。何かを言うでもなく、ただ確かめるような一瞥だった。俺も、あえて何も言わなかった。今この瞬間に、言葉を足すのは野暮な気がした。
「――勘違いするなよ」
しばらくして、アナスタシアが炎を見つめたまま言った。
「別に、仲間になったつもりはない。ただ、少し、意外だっただけだ」
「分かってる。誰もそんなこと言ってない」
「なら、それでいい」
そう言う声には、けれど、以前のような刺々しさがなかった。緊張の糸が完全に解けたわけではない。それでも、その糸は、確かに少しだけ緩んでいた。敵でも味方でもない、その中間にあった距離が、今夜、ほんのわずかに――形を変えた。
焚き火が爆ぜる音だけが、しばらく三人の間を満たしていた。
俺は炎を見つめながら、ふと思う。この奈落に落とされてから、ずっと積み残してきたものがある。自分の「適性:???」の正体。未参照領域よりさらに奥にあるという、何か。地上で今も蠢いているであろう、教国の思惑。そのどれもが、まだ手つかずのまま、暗闇の向こうに沈んでいる。
だが、今この瞬間だけは、その暗闇を数えることをやめてもいいような気がした。
パチリ、と薪が爆ぜる。
アナスタシアが、また小さく笑った気がした。




