使えない聖女、されど
「今日は、外に出てもらう」
朝食を終えたところで、ライラスがそう切り出した。アナスタシアの手が、器を持ったまま止まる。
「――外、とは」
「薬草採集だ。束を分けるだけじゃなく、今度は自分の足で採ってきてもらう。坊主がついていく」
拒否権はないと言わんばかりの、有無を言わさぬ口調だった。アナスタシアは何か言い返そうと口を開きかけたが、結局、何も言わずに立ち上がった。
境界の外へ出るのは、彼女にとって初めてに近い経験だった。俺の後を、警戒するようにつかず離れずの距離で歩いてくる。巨木の根が絡み合う薄暗い茂みを縫うように進むたび、彼女の視線が忙しなく左右へ動いていた。魔物の気配を警戒しているのか、それとも見慣れない光景に気圧されているのか、俺には判別がつかなかった。
「足元、気をつけろ。この辺りは根が浮いてる」
「言われずとも分かっている」
そう言った直後、彼女は浮いた根に爪先を引っ掛け、危うくつんのめりかけた。慌てて体勢を立て直し、何事もなかったかのように咳払いをする。俺はあえて何も言わなかった。
しばらく進んだ先、開けた場所に薬草の群生が見えた。
「昨日、教わった通りだ。葉の裏を見ろ。赤みがかってる方が毒消しだったよな」
「言われるまでもない」
自信満々に言い放つと、彼女は迷いなく一本の草を摘み取った。だが、その手つきには不安げな揺らぎが見え隠れしていた。
「――待て」
俺は反射的に、彼女の手からその草を叩き落とした。
「な、何をする!」
「それ、似てるけど別物だ。同じ場所に生えてる、見分けにくい毒草。葉脈の太さが全然違う」
アナスタシアの顔が、みるみる青ざめていく。あと一歩、口に入れて確かめようとでもしていたら――そんな想像が、俺の背筋も冷やした。
「……昨夜の分別くらい、私にもできると思っていた」
「教わったばかりで完璧にできる奴なんて、そうそういない。俺だって、最初は散々間違えた」
慰めのつもりで言った言葉だったが、彼女はそれを素直に受け取れないようだった。悔しさを押し殺すように、唇を強く結んでいる。
その後は、俺が横について確かめながらの採集になった。彼女は一本摘むたびに、俺の顔色を窺うように葉を差し出してくる。かつての傲慢さからは考えられない仕草だった。何度目かで、ようやく正しい毒消し草を一人で見分けられた時、彼女はほんの一瞬だけ、口元を緩めた。すぐに取り繕うように顔を引き締めたが、俺は見逃さなかった。
その日の午後は、火起こしに挑戦することになった。ライラスが火打石と乾いた苔を差し出す。
「見て覚えろとは言わん。何度でもやり直せ」
アナスタシアは石を打ち付けるが、火花は虚しく散るばかりで、苔に火が移らない。何度も、何度も繰り返す。額に汗が滲み、苛立ちが表情に色濃く滲み始めた。
「角度が浅い。もっと石を寝かせて、削るように打て」
ライラスが横から短く助言する。アナスタシアは無言でその通りに角度を変えるが、それでも火花は苔まで届かない。十度、二十度と繰り返すうちに、指先に小さな擦り傷まで作っていた。それでも彼女は手を止めようとしなかった。
「――くだらない。こんな石ころ遊びの何が」
吐き捨てるように言い、彼女は石を放り出した。だが、その視線は焚き火の方角へと泳ぐ。誰かが火を絶やさぬ限り、暖も食事も得られないこの奈落の現実を、痛いほど分かっているのだろう。
俺は何も言わず、少し離れた場所で薪を整えながら見守った。急かすことも、手を貸すこともしなかった。彼女がこの場で自分で答えを出す時間を、邪魔したくなかった。
しばらくして、アナスタシアは放り出した石を、また拾い上げた。
「……できなければ、生きていけない場所なのだろう、ここは」
誰に向けた言葉でもない、自分自身への確認のような呟きだった。角度を変え、力の入れ方を変え、何度も何度も打ち付ける。やがて、小さな火花が苔に落ち、細い煙が立ち上った。
「――ついた!」
思わずといった様子で、彼女は声を上げた。それは、これまで俺が聞いたどの声とも違う、飾り気のない歓声だった。
「よくやった」
背後からライラスの声がかかる。アナスタシアは弾かれたように振り返り、自分の手のひらと、小さな炎とを、何度も見比べていた。
「私が……これを、やったのか」
半信半疑の呟きだった。与えられた力でも、生まれ持った数値でもない。自分の不器用な手で、確かに何かを成し遂げた。その実感が、彼女の中でゆっくりと形を作っていくのが、傍で見ていても分かった。
教国での彼女の価値は、常に誰かに与えられた数値の大きさで測られてきた。規格外のステータス、聖女という肩書き――どれも彼女自身が積み上げたものではなく、外側から貼り付けられたものだった。だがこの小さな炎は、誰にも奪われようのない、彼女自身の手が生み出したものだった。
その夜、焚き火を囲みながら、アナスタシアはいつもより幾分か静かだった。だが、それは沈んでいるのとは違う、何かをゆっくりと噛み締めているような静けさだった。時折、自分の手のひらを見下ろしては、そっと握り込む仕草を繰り返している。
俺はその横顔を見ながら、この奈落での彼女の時間が、少しずつ、違う方向へ流れ始めていることを感じていた。数値でも、肩書きでもなく、自分の手で掴み取った小さな確かさ。それがどれほど頼りなく見えても、今の彼女にとっては、これまでのどんな栄光よりも、重みのあるものなのかもしれなかった。




