慣れない朝
朝靄の中、焚き火はまだ小さく燻っていた。
「今夜くらいは」というあの一言から、結局、彼女はそのまま居着いてしまっていた。誰も名目を決めたわけではない。ただ、朝が来ても誰も出ていけとは言わず、彼女も出ていくとは言わなかった。それだけのことだった。
視線を巡らせると、少し離れた岩陰で、アナスタシアが膝を抱えて座っているのが見えた。昨夜のまま、一睡もしていないのか、目の下にわずかな隈がある。それでも、こちらに気づくと、慌てて居住まいを正す姿には、まだ意地の残滓があった。
「――寝られたか」
「……別に、どうでもいいだろう」
そっけない返事だった。だが、逃げ出す素振りは見せない。それだけで、昨夜とは違う何かがあるのだと分かった。
ライラスが薬草の束を手に、焚き火の傍らへやってきた。俺にもアナスタシアにも、まったく同じ調子で声をかける。
「坊主、水を汲んできてくれ。嬢ちゃんは――そうだな、この束を、種類ごとに分けてもらおうか」
「――は?」
アナスタシアが目を丸くした。命令されること自体に驚いたというより、その口調のあまりの何気なさに戸惑っているようだった。
「私に、雑用をさせるつもりか」
「雑用も何も、飯を食うための当然の作業だ。ここじゃ、誰であろうと例外はない」
ライラスの声には、皮肉も気負いもなかった。他の誰かに頼むのとまったく同じ、ただの日常の延長だった。それが逆に、アナスタシアの毅然とした構えを、静かに揺さぶっているように見えた。
俺は水桶を手に立ち上がりながら、横目でその様子を窺った。神殿で望むものが望むだけ運ばれてきたであろう生活を送ってきた彼女にとって、「頼まれる」という経験そのものが、初めてに近いのかもしれない。
束を手渡されたアナスタシアは、しばらくそれを睨むように見つめていた。プライドが、この程度のことにも反発しろと囁いているのが、傍から見ても分かった。だが結局、何も言わずに薬草を一本手に取る。
「――こんなもの、見れば分かる」
そう言って、彼女は迷いなく数本を右へ、数本を左へと分け始めた。だが、その手つきはあまりに堂々としていて、逆に危うさが滲んでいた。
「――待て、それは逆だ」
ライラスの声に、アナスタシアの手が止まる。既に右側に積んでいた数本を指差され、彼女の顔が強張った。
「知ったかぶりで適当に分けると、後で腹を下す奴が出る。分からないなら、分からないと言え。それの方が、よほど始末がいい」
窘める口調ではあったが、そこに嘲りの色はなかった。ただ事実を淡々と告げるだけの声だった。アナスタシアは何かを言い返しかけて、結局、唇を引き結んで押し黙った。悔しさよりも、恥ずかしさの方が勝っているように見えた。
「――これは、どちらだ」
しばらくして、彼女が低い声で尋ねてきた。二種類の薬草を両手に持ち、見比べている。
「見た目はよく似てるが、片方は熱冷まし、もう片方は毒消しだ。葉の裏の筋を見ろ。赤みがかってる方が毒消しだ」
ライラスが手元を覗き込まずに答える。長年の経験だけが持つ、確信に満ちた声だった。アナスタシアは葉を裏返し、まじまじと見つめる。その仕草には、これまで一度も見たことのない真剣さがあった。
「……なるほど」
短い呟きだった。だが、素直に教えを乞う姿勢そのものが、俺の知っているアナスタシアからは、あまりに遠かった。
水を汲みに向かう道すがら、ふと視線を感じて振り返ると、少し離れた場所からアナスタシアがこちらを見ていた。目が合うと、慌てたように逸らされる。
「――何か用か」
「別に。物珍しいだけだ、お前が水汲み如きにいちいち律儀に働いている様が」
「珍しくもない。ここじゃ誰でもやることだ」
「教国では、水は誰かが運んでくるものだった。蛇口を捻れば出てくる、というのとも違う。ただ、誰かが黙って運んでくる。それが当然だと、そう思っていた」
珍しく、彼女は自ら過去の話を口にした。皮肉でも自慢でもない、ただ淡々とした事実の羅列だった。それが今の彼女にとって、どれほど遠い話になってしまったのか、その声の温度からうっすらと伝わってきた。
憎まれ口ではあったが、以前のような刺々しさはなく、どこか探るような響きが混じっていた。かつて俺を「バグ」と断じ、一切の温情も見せずに切り捨てた人間が、今は薬草の見分け方一つに苦戦し、こんな他愛もない軽口を叩いている。憎しみだけなら、まだ分かりやすい感情だった。だが今、俺の胸にあるのは、それとは少し違う、名付けようのないものだった。
水場から戻ると、アナスタシアは束をきれいに二つに分け終えていた。誇らしげに――とまではいかないが、どこか安堵したような表情で、ライラスにそれを差し出している。
「よくできてる。筋がいいな」
「当然だ。この程度のこと」
強がった言葉とは裏腹に、頬にわずかな赤みが差していた。それが照れなのか、単なる疲労なのか、俺には判別がつかなかった。だが少なくとも、昨夜の凍りついた表情よりは、今の彼女の方が、ずっと人間らしく見えた。
焚き火の傍らで交わされる、たわいもない日常の一幕。数日前まで、この場に彼女が座っていること自体、想像すらできなかった。人の縁というのは、時にひどく残酷で、時にこんなふうに、誰も予期しない形で転がっていくものらしい。
それでも、この奈落で始まった小さな歯車は、確かに少しずつ、新しい形へと回り始めていた。




