腐れ縁の始まり
遠吠えは、夜が更けるごとに数を増していった。
「――嫌な感じだな」
「ああ。何かが、集まってきてる」
ライラスの声にも、隠しきれない緊張があった。普段は縄張りを主張し合って争う魔物たちが、今夜は妙に一方向へと引き寄せられているような気配がある。その方角は、アナスタシアが姿を消した落下地点と、ほぼ重なっていた。
力を失いかけた聖女が、独りきりで夜を明かしている。その事実が、頭の中で警鐘のように鳴り続けていた。放っておけと自分に言い聞かせるほど、逆に足がそちらへ向きたがった。
「……放っておけって、言ったよな」
「言った」
短い答えだったが、その声に、迷いが滲んでいた。俺たちは顔を見合わせ、どちらからともなく駆け出していた。
落下地点に近づくにつれ、争う気配が濃くなる。息を切らしながら瓦礫を乗り越えると、視界が開けた。木々の隙間から差す月明かりの下、瓦礫の中央で、アナスタシアが一体の魔物と対峙していた。境界維持プロセス――以前、未参照セクタで死闘を演じた、あの緑がかった巨躯の個体と同じ種類だった。逃げ場のない瓦礫の窪みに追い詰められ、彼女は完全に孤立していた。
[ 座標変化を検知 ]
[ 高脅威個体、接近中 ]
アナスタシアの手のひらに、光が集まりかける。だが、いつものように途中で明滅し、力なく霧散した。彼女は歯を食いしばり、それでも足を踏ん張って向き合っている。逃げるという選択肢すら、頭になかったのかもしれない。
「――退け!」
叫びながらも、その声には、以前のような余裕は欠片もなかった。境界維持プロセスの太い腕が、彼女目掛けて振り下ろされる。
考えるより先に、体が動いていた。
[ コマンド送信:地形コライダーOFF ]
アナスタシアの足元が沈み、軌道が逸れる。間一髪で振り下ろされた腕が瓦礫を粉砕し、砂埃が舞い上がった。
「――お前……!」
「文句は後だ!」
彼女の腕を掴んで後退させると同時に、ライラスが横合いから瓦礫を投げつけ、境界維持プロセスの注意を逸らす。長年この奈落を生き抜いてきた男の、無駄のない援護だった。
「坊主、左だ! そっちに逃げ道がある!」
「分かった!」
三人がばらばらに動いているようで、いつの間にか噛み合っていた。俺がハックで足止めし、ライラスが誘導し、アナスタシアが――たとえ光の力が使えずとも、瓦礫の陰を読む反射神経だけは、教国の鍛錬で培われたものが確かに残っていた。
境界維持プロセスが、体勢を立て直して突進してくる。狙いは、動きの止まった俺だった。避け切れないと悟った瞬間、横から強い力で体を突き飛ばされる。
「――ぼさっとするな、間抜け!」
アナスタシアだった。力を失ってなお、とっさに俺を突き飛ばす一瞬の判断力だけは、確かに残っていた。巨腕が空を切り、二人揃って瓦礫の上を転がる。埃と痛みにむせながら、それでも笑いがこみ上げた。かつて切り捨てた側の手が、今、俺を助けている。皮肉というには、あまりに真っ直ぐな行為だった。
[ 対象、接続シグネチャの減衰を検知 ]
気配殺しのハックで、境界維持プロセスの照準がわずかに揺らぐ。その隙を突き、俺は懐から取り出した石を、狙い澄ました弾道で叩き込んだ。硬い甲殻の継ぎ目、以前の死闘で見つけた脆弱点だった。
巨躯が大きくよろめく。ライラスがすかさず、瓦礫の隙間へと二人を引き込んだ。
境界維持プロセスは、しばらく周囲を睥睨していたが、やがて獲物を見失ったように唸り声を上げ、森の奥へと引き上げていった。
静寂が戻ると、三人ともその場にへたり込んだ。荒い息だけが、しばらくの間響いていた。
「……なぜ、助けた」
アナスタシアが、俯いたまま呟いた。責めるような響きでも、感謝の響きでもない、ただ純粋な疑問だった。
「放っておけなかった。それだけだ」
「理由になっていない」
「理由なんて、そんなもんだろ。お前だって、さっき俺を助けたじゃないか。何か深い理由があったのか」
アナスタシアは、ぐっと言葉に詰まった。図星を突かれたような、それでいてどこか決まりの悪そうな沈黙だった。
彼女は何も言い返さなかった。ただ、膝を抱えたまま、月明かりに照らされた瓦礫の影をじっと見つめていた。
「――礼は、言わない」
しばらくの沈黙の後、絞り出すようにそれだけを口にする。だが、去っていく素振りは見せなかった。焚き火のある方角を、ちらりと一度だけ振り返る。
「今夜くらいは、そちらで休んでもいい。……そちらの都合が、良ければ」
誇りを完全に手放したわけではない、ぎこちない譲歩だった。それでも、これまでとは明らかに違う何かが、そこにはあった。
「爺さん、どうする」
「好きにさせればいい。敵でも、味方でもないんだ、今のところは」
ライラスの声には、いつもの飄々とした軽さが、わずかに戻っていた。俺たちは焚き火の方へと戻り始める。少し離れた後ろから、アナスタシアの足音がついてくるのが聞こえた。
同じ嘘に踏みにじられた者同士――その事実だけが、言葉にならないまま、三人の間に静かに横たわっていた。和解と呼ぶには早すぎる。信頼と呼ぶにも、まだ足りない。それでも、互いに背を向け合っていたところから、ほんの半歩だけ、距離が縮まったのは確かだった。
焚き火の炎が、小さく爆ぜた。その音に、三人分の視線が同時に集まる。誰からともなく、小さく息を漏らす。それが笑いに近いものだったのかどうか、俺自身にもよく分からなかった。ただ、確かに何かが、動き始めていた。




