剥がれた仮面
あれから、丸一日が過ぎた。
アナスタシアの姿は見えなかった。だが、遠くから響く物音――瓦礫を蹴り飛ばすような音や、獣のような呻き声が、何度も風に乗って届いた。誰かに向けたものではない、ただ自分自身にぶつけるような荒々しさだった。
俺は何度も、その方角へ目をやった。行って何を言えるわけでもない。それでも、じっとしていることの方が、かえって落ち着かなかった。昨日の、あの震える背中が頭から離れない。誇りだけを支えに立っていた人間から、その支えを一枚剥ぎ取ってしまった――そんな感覚が、ずっと胸の奥に居座っていた。
「――放っておいていいのか」
「いや」
ライラスは短く答え、それ以上は何も言わなかった。焚き火の前に座り込んだまま、ずっと同じ方角を見つめている。昨日、真実を告げてから、彼はほとんど口を利かなくなっていた。
夕刻、境界の向こうから足音が近づいてきた。乱れた、荒っぽい足取りだった。
「――出てこい!」
叫びとともに、アナスタシアが姿を現した。目は血走り、髪は乱れ、装束のあちこちが土で汚れている。これまでのどの瞬間よりも、彼女らしくない姿だった。
「お前たちが、企んでいるんだろう。私を惑わせて、この惨めな場所に引きずり込むために――そういう、下賤な策略なのだろう!」
「嬢ちゃん、落ち着け」
「黙れ! お前が、そもそもの元凶だ! お前があんな戯言を口にしなければ、私は今も――」
言葉が、途中で崩れた。何を続けようとしたのか、本人にも分からなくなったようだった。アナスタシアは拳を握りしめ、震わせながら、今度は俺へと視線を移した。
「お前も、最初から知っていたのか。私を、嘲笑うために黙っていたのか」
思わず、苦い笑いがこみ上げそうになった。かつて俺の顔すら記憶に留めず切り捨てた本人から、今度は「知っていて黙っていた」と詰られている。皮肉としか言いようのない巡り合わせだった。だが、それを口にする気にはなれなかった。今の彼女に、そんな余裕は欠片も残っていない。
「知らなかった。爺さんが話すまでは、俺も」
「嘘をつくな!」
アナスタシアは俺の懐に手を伸ばすと、預けたままだったあの板の欠片を乱暴に奪い取り、足元へ叩きつけるように投げつけた。欠片は鈍い音を立てて地面に転がる。
「これが、証拠なのだろう。お前たちにとっては、私を嘲笑うための、格好の材料だ」
「そんなつもりじゃ――」
「黙れと、言っている!」
彼女の手のひらに、光の粒子が集まりかける。だが、それはすぐに明滅し、力なく霧散した。何度も同じことを繰り返し、そのたびに彼女の表情が絶望に近い色を帯びていく。
「――どうして……どうして、こんな……」
声が、涙に滲んでいた。誇り高く冷酷だった聖女の面影は、もうどこにも残っていなかった。ただ、足場を失って立ち尽くす、一人の少女の姿だけがあった。
「板の記録も、噂も……全部、繋がっている。認めたくないのに、繋がってしまう……」
その呟きは、俺にというより、自分自身に言い聞かせるような響きだった。信じたくないものを、それでも頭の隅では信じ始めている――そんな引き裂かれた声だった。
「私は……何のために……」
言葉にならない問いを最後まで紡げないまま、彼女は自分の胸元を強く握りしめ、うずくまるようにその場に座り込んだ。荒い呼吸だけが、しばらくの間、その場を支配していた。
俺は一歩踏み出しかけたが、ライラスの手が、それを制した。
「今は、そっとしておいてやれ」
「でも――」
「追い詰めるだけだ、今の坊主の言葉じゃ。何を言っても、届かん」
アナスタシアはやがて、ふらつく足取りで立ち上がると、俺たちに背を向けた。もう叫ぶ気力もないのか、ただ黙って、瓦礫の向こうへと消えていく。追う者は、誰もいなかった。
焚き火の傍らで、ライラスが長い息を吐いた。
「――思った通りだ。恨まれて当然のことをした」
「後悔してるのか」
「いや」
短い否定だった。だが、その声には、長年抱えてきた罪悪感からようやく解放された安堵と、恐れていた通りの拒絶が返ってきた苦さが、同時に滲んでいた。
「言わずに済ませることもできた。だが、それじゃあ、俺自身が壊れちまう気がしてな。……もう遅いが、な」
「これから、どうするつもりだ」
「どうもしない。ただ、逃げずにここにいる。それだけだ」
短い答えだったが、迷いはなかった。恨まれ、拒絶され、これから先も許される保証など何一つないというのに、それでもこの場を離れる気は毛頭ないらしい。その横顔には、これまで見たどの表情とも違う、静かな覚悟があった。過去と向き合い、その報いを引き受ける覚悟だった。
俺は足元に転がったままの板の欠片を拾い上げた。彼女が叩きつけていった、この小さな証拠の欠片。手のひらに乗せると、ひどく軽いはずなのに、今はやけに重く感じられた。
俺は、アナスタシアが消えていった方角を、もう一度見つめた。誇りを剥がされた後に残るものが何なのか、彼女自身にも、今はまだ分かっていないのかもしれない。
遠くで、獣の遠吠えのような声が上がった。一度だけではなく、二度、三度と続く。普段より明らかに数が多い。誰かの荒れた気配、乱れた足取りに、この奈落の住人たちが引き寄せられ始めているのかもしれなかった。嫌な予感が、胸の底をちりりと刺す。
それでも、確かなことが一つだけあった。もう、後戻りはできない。この奈落で始まった小さな綻びは、もう誰にも止められないところまで、動き出してしまっていた。




