揉み消された真実
その夜、ライラスは焚き火の番を代わろうとしなかった。
いつもなら早々に寝床へ引っ込む男が、膝を抱えるようにして炎を見つめたまま、微動だにしない。何度か声をかけようとしたが、そのたびに言葉を飲み込んだ。今日という日に、何か区切りをつけようとしているのが、横顔だけで分かってしまったからだ。
俺は懐に仕舞った板の欠片を、指先でそっと撫でた。あの日アナスタシアから押し付けられたものだ。ひび割れた表面の記号を眺めながら、自分の「適性:???」という表示のことを思う。根拠を失った数値が抱える不安の重さは、俺にも覚えのあるものだった。だからこそ、これから起きようとしていることの輪郭が、なんとなく見えてしまっている気がした。
夜半を過ぎた頃、ライラスがようやく口を開いた。
「――坊主。明日、あの嬢ちゃんが来たら、呼んでくれ」
「……話す気か」
「ああ。潮時だろう。もう、逃げ切れるもんでもない」
その声に、いつもの飄々とした軽さはなかった。ただ静かに、長年抱えてきた何かを下ろす覚悟だけがあった。
翌朝、境界がざわつく前に、俺はライラスと二人、落下地点の近くまで足を運んだ。待つよりも、こちらから会いに行く方がいいと、彼が言い出したからだ。
アナスタシアは、瓦礫の陰にいた。俺たちの気配に気づき、身構えるように立ち上がる。
「――」
「……嬢ちゃん。聞いてほしい話がある」
ライラスの声に、アナスタシアの表情が微かに変わった。値踏みするような目の奥に、初めて緊張の色が滲む。
「二十数年前、俺はまだ教国で鑑定士をやっていた」
静かな切り出しだった。アナスタシアの肩が、びくりと強張る。
「ある年、聖女候補として一人の幼子を鑑定した。だが、結果は『権限未検証』――規定の判定手順そのものが通らない、異常値だった」
ライラスの声は、淡々としながらも、どこか遠くを見ているようだった。
「珍しいことじゃなかった。だが、その子は違った。判定が終わった直後、普段なら顔も出さない上層部の連中が何人も現れて、俺の記録を取り上げていった。それから数日後には、俺は異端認定を受けて、この奈落に叩き落とされていた。理由は、最後まで教えられなかった」
「……やめろ」
「幼子の名を、確かに覚えている。アナスタシア。お前だ」
沈黙が落ちた。焚き火の爆ぜる音も、風の音すらも聞こえないほどの、重い静寂だった。
「戯言を」
絞り出すような声だった。だが、そこには以前のような揺るぎない断言の響きはなかった。
「老いぼれの妄言に付き合う暇はない。私は聖女だ。生まれながらにして選ばれた、規格外の――」
「その数値は、教国上層部が"遺物"で人為的に底上げしたものだ。俺はそれを正直に報告しようとした。だが、揉み消された。異端認定を受け、奈落へ落とされたのは、その口封じだった」
「――黙れッ!」
悲鳴に近い叫びだった。アナスタシアは両手で耳を塞ぐようにして後退る。だが、その足取りは、いつもの威圧的なものではなく、明らかに怯えを孕んでいた。
「知るか、そんな話。私の力は、本物だ。誰にも――誰にも、証明されている」
言い切った直後、彼女の目に一瞬、戸惑うような色がよぎった。まるで、遠い記憶の奥で何かがかすかに引っかかったかのような、そんな表情だった。だが本人はすぐにそれを打ち消すように、強く首を振った。
「なら、聞くが」
ライラスの声は、それでも揺るがなかった。
「ここ数日、お前の力が不安定になっているのは、なぜだ。供給元から切り離された今、数値が崩れ始めているとしたら――それこそが、答えじゃないのか」
アナスタシアの表情が、凍りついた。図星を突かれた者の顔だった。自分の手のひらを、無意識に見下ろす。あの日、何度も指を開いては閉じていた、あの手だった。
「……違う。そんなはずがない。私は……」
声が、初めて震えていた。否定の言葉を重ねるほどに、それを支える根拠が薄れていくのが、傍で見ている俺にも分かるほどだった。
「私は……選ばれた、聖女だ」
それは、自分自身に言い聞かせるような呟きだった。誰かに向けた言葉ではなく、崩れかけた足場を必死に踏みしめようとする、悲鳴に近い自己暗示だった。
「戯言だ。全部、戯言だ。老いぼれの妄言に、耳を貸す価値などない」
そう言い捨てると、アナスタシアは踵を返し、瓦礫の向こうへと駆けていった。振り返ることはなかった。だが、その背中は、これまで見たどの瞬間よりも小さく、頼りなく見えた。
「――爺さん」
「……言った。ようやく、言えた」
ライラスの声には、安堵とも苦さともつかない響きがあった。長年、胸の奥に押し込めてきた重荷を、ついに下ろしたのだろう。だが、その表情に浮かんでいたのは、解放感よりも、深い疲労と、ある種の恐れだった。
「受け入れられるとは、思ってなかった。ただ――もう、黙っていられなかった」
そう言って、ライラスは初めて、肩の力を抜いたように大きく息を吐いた。長年、体の奥深くに沈めてきた澱を、ようやく吐き出したのだろう。二十数年分の重みが、今、確かに彼の背から下りたのが分かった。だがそれは同時に、何も終わらせてはいない吐息でもあった。
俺は何も言えなかった。彼女が去っていった方角を、ただ見つめることしかできなかった。
否定の言葉の裏側に滲んでいた、あの震え。あれは、きっと嘘ではなかった。彼女の中で、何かが確実に軋み始めている。それが崩壊へと向かうのか、それとも別の場所へと辿り着くのか――今はまだ、誰にも分からなかった。
懐の板の欠片が、いやに重く感じられた。「適性:???」という自分の表示と、彼女が背負わされてきた偽りの数値。似ているようで、決定的に何かが違う気もする。だが、根拠のない足場の上に立たされる心細さだけは、確かに共有できるものなのかもしれなかった。




