覚えのある言葉
あの日から、また二日が過ぎた。
アナスタシアは姿を見せなかった。だが、境界の外れに人の気配が留まっていることは、何度も感じ取れた。近づいては離れ、離れてはまた戻ってくる。まるで、踏み込む勇気と、踏み込まない理由を、天秤にかけ続けているかのようだった。
「――あれから、何か言ってきたか」
「いや。爺さんにも?」
「……何も」
ライラスの返事は短かった。焚き火の薪をくべる手つきも、心なしかいつもより雑だった。この二日、彼は口数が目に見えて減っていた。冗談の一つも飛ばさなくなった横顔を見るたび、あの日の「今は、聞くな」という声が耳の奥に蘇る。
二日の間、彼女がただ蹲っていただけではないことにも、俺は薄々気づいていた。落下地点の周辺を一度見に行くと、以前はなかった瓦礫の崩し跡や、掘り返されたような土の乱れが、あちこちに残っていた。糧を探すだけにしては、あまりに執拗な跡だった。何かを、探している。そんな気配が、乱れた土の表面から滲み出ていた。
三日目の朝、境界がまたざわついた。
[ 座標変化を検知 ]
[ 未登録個体、境界付近に接近 ]
見慣れた表示だった。木々の合間から現れたのは、やはりアナスタシアだった。今度は、前回よりも迷いのない足取りで、境界の一歩手前まで進んでくる。
「――老いぼれ。もう一度聞く」
挨拶も前置きもなかった。彼女の目は、ライラスだけをまっすぐに捉えていた。
「『権限未検証』。この言葉に、聞き覚えは」
その一言に、空気が凍りついた。ライラスの手が、薪を持ったまま止まる。俺の位置からでも分かるほど、指先が強張っていた。
「――何の話だ」
低く、絞り出すような声だった。
アナスタシアは一歩、また一歩と、境界の際まで詰め寄ってきた。誇りを保つための距離すら、今の彼女には惜しいようだった。
「とぼけるな。地上の噂話に紛れて、耳にした言葉だ。鑑定の記録の中に、そういう分類が存在するらしいとな」
「本来なら、聖女になど選ばれるはずのない数値。それを持つ者が、何らかの理由で選ばれてしまった時に使われる言葉らしい。随分と、都合のいい言い草だと思わぬか」
「――どこで、その言葉を知った」
思わず割って入った俺に、アナスタシアの視線が一瞬だけ動いた。
「知る必要が、お前にあるとでも?」
そう言いながらも、彼女は懐から何かを取り出し、無造作に差し出してきた。半分に割れた、灰色の板の欠片だった。表面には、見慣れた記号の連なりが、かすかに残っている。
「――瓦礫の下から、拾った。読めぬ文字も多いが、いくつかの単語だけは、地上で聞きかじった噂と一致した」
板の欠片。俺とライラスが、これまで幾度となく拾い集め、解読を試みてきたものと同じ種類のものだった。まさか彼女まで、独りでここまで辿り着くとは思っていなかった。彼女の中の何かが、あの誇りを押しのけてでも、真実へ手を伸ばさせているのだと分かった。
ライラスは答えなかった。答えない、という選択そのものが、答えになってしまっていることに、彼自身気づいていないはずがなかった。
「――知らんな、そんな話は」
ようやく絞り出された声は、いつもの飄々とした調子を装おうとしていた。だが、視線はアナスタシアの顔を避け、焚き火の炎の方へと逃げていた。俺にはその癖が、もう何度も見た「誤魔化している時のライラス」だと分かってしまっていた。
「――目を、逸らすのだな」
アナスタシアが低く呟いた。獲物の急所を見つけた猟師の声だった。
「知らぬ話であれば、私の目を見て言えばよいだけのこと。それすらできぬ理由は、何だ」
「……」
「答えろ、老いぼれ。お前は、何を知っている」
彼女の声が、初めて震えを帯びた。怒りだけではない、何か別のものが混じっていた。恐れに近い響きだった。自分の足元が、少しずつ崩れ始めていることに、彼女自身も薄々気づき始めているのかもしれなかった。
「――爺さん」
思わず声をかけた。ライラスは俯いたまま、何も答えない。膝の上で握りしめた拳が、小刻みに震えているのが見えた。
アナスタシアがさらに一歩、境界の内側へと踏み込んだ。
[ 未登録個体、境界内へ侵入 ]
これまで一度も越えなかった一線を、初めて越えていた。
「言え。私の何を、知っている」
もう猶予はない――そう言わんばかりの詰め寄り方だった。焚き火の炎が、ぱちりと小さく爆ぜる。その音が、やけに大きく響いた。
ライラスはゆっくりと顔を上げた。その目には、これまで見たことのない色が浮かんでいた。覚悟とも、諦めともつかない、深い色だった。口が、微かに開きかける。
だが、言葉になる寸前で、また閉じられた。
「――今は、まだだ」
絞り出すような一言だけを残し、ライラスは立ち上がると、逃げるように焚き火から離れていった。アナスタシアはその背を追おうとして、しかし一歩を踏み出したところで止まった。拳を握りしめたまま、その場に立ち尽くしている。
俺は二人の間で、ただ立ち尽くすしかなかった。何かが、確実に近づいている。それが崩壊なのか、それとも別の何かなのか――今の俺には、まだ判断がつかなかった。
握らされたままの板の欠片を、俺は無意識に見下ろした。ひび割れた表面の記号は、俺のステータス表示によく似ている。彼女が独りで拾い集めたこの欠片一枚が、いずれ全てを繋げてしまうのかもしれない。そう思うと、ライラスの沈黙の重さが、これまでとは違う質量を持って肩にのしかかってくるような気がした。
ただ一つだけ、確かなことがあった。ライラスが抱え続けてきた沈黙は、もう長くは持たない。そんな予感だけが、焚き火の熾火のように、いつまでも胸の奥でくすぶり続けていた。




