訪れた誇り
三日が経った。あの日、覚束ない足取りで背を向けて去っていったアナスタシアの後ろ姿を、俺はまだ忘れられずにいた。
「――律儀に待ってるのか、坊主」
「別に。ただ、少し気になるだけだ」
ライラスは焚き火の傍らで薬草を刻みながら、こちらを見もせずに言った。図星を突かれたようで、返す言葉に詰まる。実際、待っているつもりなどなかった。ただ、頭の隅にあの凍りついた表情がこびりついて、離れないだけだ。
あれから彼女は姿を見せなかった。近くをうろついている気配だけは、何度か感じた。境界のすぐ外側で、こちらを窺うように留まっては、また離れていく。踏み込もうとしない――いや、踏み込めないでいるようだった。
様子を見に行こうかと、正直、何度も思った。だがライラスの「深入りはするな」という声が、そのたびに頭をよぎった。彼が誰よりもアナスタシアとの距離を測りかねていることを、この三日でいやというほど思い知らされていた。だから俺は、キャッシュ領域の外れで薬草を干したり、崩れかけた瓦礫を整理したりしながら、意味もなく手を動かして時間をやり過ごすしかなかった。
その日の夕刻、キャッシュ領域の境界がわずかにざわついた。
[ 座標変化を検知 ]
[ 未登録個体、境界付近に接近 ]
見慣れない表示に反応し、視線を巡らせる。木々の隙間から、白い装束の輪郭が覗いていた。アナスタシアだった。
彼女は境界の一歩手前でぴたりと足を止め、腕を組んだまま、こちらを睨むように見据えていた。誇りが、最後の一線だけは守らせているようだった。
三日前より、明らかに窶れていた。頬はさらに削げ、装束の裾は泥で黒ずんでいる。それでも背筋だけは真っ直ぐに伸びていて、その不釣り合いさが、かえって痛々しかった。
「――何の用だ」
「勘違いするな。お前に用があるわけではない」
澄ました声だった。だが、以前のような迷いのない断言とは、どこか響きが違った。言葉を選んでいる――そんな気配が、初めて滲んでいた。
「――鑑定について、詳しい者はいないのか。此処に」
唐突な問いだった。俺は思わず、隣に立つライラスへ目をやった。
「鑑定? なんで今更、そんなこと――」
「聞いているのは、お前ではない」
アナスタシアの視線が、ライラスへとまっすぐに突き刺さる。ライラスは薬草を刻む手を止めないまま、ゆっくりと顔を上げた。
「――さあな。俺はただの年寄りだ。鑑定なんて上等なもんは、教国の連中の専売特許だろう」
いつもの飄々とした口調だった。だが、そこには一瞬、明らかに言葉を選ぶような間があった。俺にしか気づけないほどの、わずかな間だった。
「鑑定というものは、対象の数値を読み取るだけの単純作業ではない。判定基準、権限の階層、記録の残し方――少なくとも幾つかの層が絡み合っている代物のはずだ。それを知らぬ田舎者が、知った風な口を利くでない」
アナスタシアが片眉を上げた。値踏みするような目が、初めて僅かに揺れる。
「――随分と、詳しいことだな。ただの年寄りにしては」
「昔、聞きかじっただけのことさ。ここには、地上から落とされてきた連中がいくらでもいる。噂話くらい、嫌でも耳に入る」
言い訳としては、筋は通っていた。だが、俺の目には、ライラスの指先がほんのわずかに強張っているのが見えた。声の高さも、いつもよりほんの少しだけ、高い。
(――誤魔化してる)
確信に近い違和感だった。だが、それを今この場で口にする気にはなれなかった。ライラスにも、ライラスなりの理由があるはずだった。
「――噂話にしては、随分と具体的だ」
アナスタシアが目を細める。獲物を前にした猟師のような、静かな探るような視線だった。
「それとも、教国にいた者でも知り合いにいるのか。老いぼれ」
「さあな。長く生きてりゃ、色々耳に入るってだけの話だ。それ以上でも以下でもない」
ライラスは薬草を刻む手を、今度こそ止めた。だが顔は上げず、視線を落としたままだった。何気ない動作のはずなのに、それがかえって不自然に見えた。
アナスタシアはしばらくの間、ライラスの顔を見つめていた。値踏みするような、それでいて何かを測りかねているような、複雑な目だった。
「――そうか。ならば、いい」
それだけ言うと、彼女は踵を返した。だが去り際、一度だけ振り返る。
「次は、もう少しまともな答えを用意しておけ、老いぼれ」
高圧的な捨て台詞だった。それでも、以前ほどの余裕は、もうその声には残っていなかった。生き延びるために、あれほどのプライドを押し殺してまで、彼女はここまで足を運んだのだ。その事実の方が、言葉よりも雄弁だった。
彼女の後ろ姿が木々の向こうへ消えるまで、ライラスは何も言わずに見送っていた。
「――爺さん」
「……今は、聞くな。坊主」
その一言で、俺は口をつぐんだ。ライラスの横顔には、隠しきれない緊張の色が、確かに滲んでいた。長年、飄々とした仮面の下に押し込めてきた何かが、今、静かに軋み始めている。そんな気がした。
焚き火に目を戻すと、切り刻まれた薬草が、いつの間にか必要以上に細かくなっていた。ライラスの手が、無意識のうちに何度も同じ動きを繰り返していたのだろう。それに気づいた本人が、ばつが悪そうに刃物を鞘へ収める。
「――今日はもう、休む。悪いが、火の番は任せた」
いつもより早い、そしてどこか逃げるような足取りで、ライラスは寝床の方へと消えていった。残された俺は、燃え残りの炎をぼんやりと眺めながら、彼の背中を思い返す。
鑑定士。教国。ライラスがこれまで語らずにきた過去の欠片が、今日という一日を通して、少しずつ輪郭を持ち始めているような気がした。それが何を意味するのか、まだはっきりとは分からない。だが、確かなことが一つだけあった。
境界の向こうで、何かが少しずつ動き始めている。それが良い方向へ転がるのか、それとも取り返しのつかない場所へ転がり落ちていくのか――今の俺には、まだ判断がつかなかった。




