借り物の力
あれから三日、あえて彼女には近づかなかった。
「――気にしてるのか、坊主」
「別に。放っておいても、どうにかするだろ、あれくらいの奴なら」
言葉とは裏腹に、頭の片隅から彼女の姿が離れなかった。瓦礫に座り込んだまま、それでも折れなかったあの傲慢さ。あれが、この奈落でどれだけ持つのか――純粋な好奇心なのか、それとも別の何かなのか、自分でもうまく説明がつかなかった。
「様子だけ、見に行くか」
「関わるなよ、とは言わん。だが、深入りはするな」
ライラスの声には、いつになく重い響きがあった。あの初対面の日以来、彼はアナスタシアの名前を、自分から一度も口にしていない。何か聞きたいことは山ほどあったが、この重さを崩す資格が自分にあるとは思えず、結局何も聞けずにいた。
落下地点の周辺は、すでに人の気配が一つ増えたことに反応してか、以前より魔物の出没が増えていた。慎重に近づくと、遠くで争う気配がある。俺たちは物陰に身を潜め、様子を窺った。
アナスタシアが、一体の魔物と対峙していた。奈落の基準では、取るに足らない部類の相手だ。それでも、彼女の動きは明らかに硬く、実戦慣れしていないことが一目で分かった。
「――消え失せよ、下郎が」
彼女が手をかざすと、指先に光の粒子が集まり始めた。聖女特有の力――そう聞いていたものが、確かにそこにあった。教国の伝承では、聖女の力は規格外、比類なきものだと語られていたはずだ。少なくとも、噂に聞く限りでは。
[ 異常出力を検知 ]
[ 光属性反応:不安定 ]
だが、放たれるはずだった光は、途中で明滅し、まるで息切れするように弱々しく霧散した。
「――なッ」
アナスタシアの顔に、初めて見る動揺が走った。魔物はその隙を見逃さず、一気に間合いを詰める。彼女は咄嗟に飛び退いたが、着地に失敗し、瓦礫の上に無様に転がった。
「もう一度……!」
もう一度、同じ動作を繰り返す。だが結果は同じだった。光は集まりかけては萎み、集まりかけては萎む。まるで、蛇口の元栓が壊れているかのように。
(――俺と、同じだ)
その光景に、既視感が重なった。自分のMPが、望んだ瞬間に来ない、あの感覚と。
魔物の爪が、無防備になった彼女の背へと迫った。考えるより先に、体が動いていた。
[ コマンド送信:地形コライダーOFF ]
彼女の足元がわずかに沈み、その分だけ軌道がずれる。爪は空を切り、俺は間髪入れずに飛び出して、魔物の脇腹を蹴りつけた。ハックの補助込みとはいえ、これまで積み重ねてきた実戦の勘が、体を正しく動かしてくれた。
魔物が怯んだ隙に、俺はアナスタシアの腕を掴んで無理やり後退させる。
「離せ、下賤な手で触れるな!」
「文句は、生き延びてから言え」
距離を取ったところで魔物も追ってはこず、やがて興味を失ったように離れていった。物陰からライラスが姿を現し、油断なく周囲を見渡す。
「無事か、坊主」
「ああ、こっちは。そっちは――」
言いかけて、視線をアナスタシアへ戻す。彼女は膝をつき、荒い息を整えながら、なおも俺たちを睨みつけていた。傷だらけの手のひらを、まだ信じられないという顔で見つめている。
沈黙が落ちる。アナスタシアは自分の手のひらを見下ろし、何度も指先を開いたり閉じたりしていた。信じられない、というより、認めたくない――そんな表情だった。
「――今のは、たまたまだ。少し、体調が優れなかっただけのこと」
「三回連続で、たまたまか」
ライラスが横から口を挟んだ。その声には、探るような響きがあった。
「体調不良にしちゃ、随分と都合よく力が抜けるもんだな。それに、その身なり――ここに来てから、まともに食えてないんじゃないか」
言われて見れば、アナスタシアの頬はいくらか痩けていた。神殿では、望むものが望むだけ運ばれてきたであろう生活を送ってきたに違いない。この奈落で、自ら糧を得るという発想そのものが、彼女の中にまだ存在していないのかもしれなかった。
「――余計なお世話だ」
「黙れ! お前ごときが、私に指図する権利など――」
その声は、いつもより張りがなかった。虚勢だと、聞いているこちらにも分かるほどに。
「……借り物、なんじゃないのか。その力」
思わず漏れた一言に、アナスタシアの表情が凍りついた。何気ない言葉のつもりだった。だが、彼女の反応は、明らかにただの反発ではなかった。図星を突かれた者の、あの一瞬の硬直だった。
「――知った風な口を、利くな」
絞り出すような声だった。それでも、その場から動こうとしない、いや、動けないでいるようにも見えた。しばらくの沈黙の後、彼女は何も言わず、俺たちに背を向け、覚束ない足取りでその場を離れていった。振り返ることは、最後まで一度もなかった。
「――坊主、今のは」
「分からない。分からないけど……何か、あるんだろうな」
ライラスは何かを言いかけて、また口をつぐんだ。彼女が去っていった方角を、長い間じっと見つめている。その横顔には、この奈落に来てから見たことのない、複雑な陰があった。
「爺さん、やっぱり何か知ってるんじゃないのか」
「……いや。今は、まだ何も言えん」
はっきりとした否定ではなかった。むしろ、その言い方こそが、何かを知っていることの証明のように聞こえた。だが、それ以上問い詰める気にはなれなかった。彼にも、彼なりの区切りをつける時間が必要なのかもしれない。
彼女の後ろ姿を見送りながら、俺は自分の手のひらを見下ろした。壊れかけた蛇口。俺の中にあるそれと、彼女の中で今起きていることは、どこかで繋がっているのかもしれない。
根拠のない直感だけが、確信に近い重さを持って、はっきりと居座り続けていた。




