堕ちた聖女
丸一日、キャッシュ領域で休んだ。傷はどうにか塞がったが、あの保守体との死闘の記憶は、体の芯にまだ重く残っていた。
「――行くのか、坊主」
「ああ。放っておける話じゃない」
落下地点の見当はついていた。轟音のした方角、地響きの伝わり方から逆算すれば、そう遠くない範囲に絞り込める。ライラスも止めはしなかった。止めたところで、俺が引き下がらないことを分かっているのだろう。
道中、境界維持プロセスにも保守体にも遭遇しなかった。それが不気味に感じられるほど、静かな道のりだった。
歩きながら、頭の中では様々な考えが渦を巻いていた。落ちてきたのが、もし本当にあの少女だったら――どんな顔をすればいいのか、俺自身にも分からなかった。憎しみだけなら、まだ分かりやすかった。だが、あの一件から始まったこの奈落での日々を思うと、単純に恨み言をぶつける気にもなれない、複雑な感情がずっと燻り続けていた。
落下地点は、瓦礫が放射状に吹き飛んだ、痛々しいほど分かりやすい跡を残していた。中心に近づくにつれ、焦げたような臭いと、かすかな発光が混じった空気が肌にまとわりつく。これほどの規模の落下痕を前にして、無事な人間がいるとは、正直なところ思えなかった。
瓦礫の窪みの中に、それはいた。
白い装束――半ば泥と煤にまみれ、あちこちが裂けている。だが、その下から覗く顔立ちには、見覚えがあった。忘れようにも忘れられない、あの日の顔だった。
(――間違いない)
大聖堂の祭壇の上、氷のような無表情で俺を見下ろし、「バグ」の一言で片付けた少女。今は瓦礫にもたれ、片膝を抱えるようにして座り込んでいる。負傷はしているようだったが、目の光はまだはっきりしていた。
「――生きてたか」
俺の呟きに、彼女の視線がこちらへ動いた。値踏みするような、そして苛立ちを隠さない目だった。
「近づくな、下賤な者が。ここがどこかも分からず、うろついているつもりか」
その声には、傷を負った人間らしい弱々しさなど微塵もなかった。むしろ、状況を理解していないのはお前たちの方だと言わんばかりの、変わらぬ高圧的な響きだった。
「――ここは、あんたが思ってる場所とは違う。奈落だ。教国の裏、地の底」
「戯言を。私は聖女アナスタシア。何かの手違いで、一時的にこのような場所に留め置かれているに過ぎぬ。すぐに迎えが来る」
迷いのない断言だった。現実を疑う様子すら、欠片も見えない。周囲を見渡せば、灰色に淀んだ瓦礫と、遠くにうごめく魔物の気配しかないというのに、彼女の口調は、まるで神殿の一室で茶を待っているかのように落ち着き払っていた。
「――正気か、あんた」
「無礼な物言いだ、と言っているのが聞こえぬのか」
「爺さん、こいつ……」
「本気で言ってるみたいだな。厄介なことに」
ライラスが小声で返す。俺はもう一度、彼女の顔をまじまじと見つめた。あの日から、俺はこの顔を何度も夢に見た。切り捨てられた瞬間の絶望も、恐怖も、まだ体のどこかに刻まれている。
だが、彼女の目に、俺を認識した色は一切なかった。
「――俺のこと、覚えてないのか」
「は?」
「大聖堂だ。鑑定の儀で、あんたが『バグ』だと断じた奴が、ここにいる」
アナスタシアは片眉を上げ、値踏みするように俺を見た。そこにあったのは、驚きでも動揺でもなく、ただの無関心だった。
「鑑定でバグと判定された者など、片手では数えきれぬほどいたわ。いちいち顔まで覚えているとでも?」
その一言が、思っていたよりも深く刺さった。俺にとってあの瞬間は、人生を丸ごと塗り替えた出来事だった。何度も夢に見て、何度も憎み、何度も乗り越えようとしてきた記憶だ。だが彼女にとっては、無数にある「処理」の中の、名もない一件に過ぎなかったのだ。
「――なるほどな」
ライラスが低く呟いた。その声に滲んでいたのは、皮肉とも、憐れみともつかない響きだった。
「かつて『バグ』と切り捨てた側が、今度は自分が奈落に落とされる番、ってわけか。世の中、うまくできてるもんだ」
「戯言はそこまでにせよ。お前たちの分際で、私を憐れむような口を利くでない」
アナスタシアの声には、まだ揺るぎない誇りがあった。だが、その足元には瓦礫と血の染みが広がり、纏う装束は聖女らしさの欠片もないほどに汚れていた。現実と、本人の認識との間にある落差が、痛々しいほどはっきりしていた。
「――迎えなんて、来ないぞ、多分」
俺は静かに告げた。慰めでも脅しでもなく、ただの事実として。奈落に落とされた者を、教国が律儀に迎えに来た例など、これまで一度も聞いたことがなかった。
アナスタシアの表情が、初めてわずかに揺れた。だがそれも一瞬で、すぐにまた高慢な仮面の下に隠されてしまう。
「戻れ。次に顔を見せたら、容赦はしない」
その台詞にどれほどの実行力が伴っているのか、今の彼女の姿を見れば、疑わしいことこの上なかった。それでも、俺たちはそれ以上、何も言わずにその場を離れた。振り返ると、彼女はまだ同じ姿勢のまま、瓦礫の中に座り込んでいた。
「――当分、放っておいて大丈夫か」
「さあな。だが、今すぐどうこうする話でもないだろう」
ライラスの声は、いつになく重かった。かつて自分が鑑定した少女と、いずれ向き合わなければならない日が来ることを、彼はもう覚悟しているのかもしれなかった。
俺はちらりと、ライラスの横顔を盗み見た。あの落下地点での短いやり取りの間、彼は終始無言だった。いつもなら軽口の一つも挟んでくる男が、今日はそれをしなかった。アナスタシアの顔を、まるで直視するのを避けるように。
まさか、とは思う。だが、その「まさか」を今、確かめる勇気は俺にもなかった。
奈落に、新しい歯車が一つ、確かに落ちてきた。それがどんな音を立てて回り始めるのか、まだ誰にも分からない。




