機転と異変
保守体が動いた瞬間、俺は最後に残っていたハックを叩き込んだ。分割系統とシグネチャ秘匿を同時に発動させ、少しでも軌道をずらそうとする、苦し紛れの一手だった。
[ 複合コマンド:処理負荷 過大 ]
[ 効果:不完全 ]
紋様のわずかな揺らぎだけが返ってきた。焼け石に水だ。分かっていたはずなのに、他に打てる手がなかった。
保守体の一撃は、これまでのどれよりも速かった。
避けたはずだった。だが、拳の余波だけで体が浮き、視界が一瞬、真っ白に染まる。地面に叩きつけられ、肺の中の空気が根こそぎ抜けていくのが分かった。
[ 損傷を検知 ]
[ HP:危険域 ]
「――坊主!」
ライラスの声が、やけに遠くから聞こえた。立ち上がろうとするが、体が言うことを聞かない。二撃目の気配が、すぐそこまで迫っていた。
(――終わる)
頭のどこかで、そんな諦めに近い言葉が浮かんだ瞬間だった。
視界の端で、ライラスが動いた。俺の方ではなく、崩れかけた台座の残骸へと突っ込んでいく。保守体の直前の一撃で、近くの台座の一つが巻き添えを食い、大きく損壊していた。その隙間から、淡く発光する小さな欠片――遺物の一部らしきものが、地面に転がり出ている。
「これで、時間を稼ぐ!」
ライラスはそれを鷲掴みにすると、保守体の意識の外――離れた暗がりへ向けて、力任せに投げつけた。
[ 遺物構成物:逸脱を検知 ]
[ 優先目標:再設定中... ]
保守体の巨躯が、ぴたりと止まる。振り上げかけていた腕が、明後日の方向――欠片が転がっていった暗がりへと、ゆっくり向き直った。検体の維持を最優先するその性質が、たった今、俺たちよりも欠片の行方を優先させたのだ。
「今のうちだ、立て!」
ライラスに肩を担がれ、俺は半ば引きずられるようにして駆けた。振り返る余裕もなかった。柱の隙間を抜け、保守体の間合いから完全に外れるまで、俺たちは無言のまま走り続けた。
境界を越え、あの独特の静けさが戻ってきたところで、ようやく足が止まった。
「――生きてる、な」
「……多分」
答える声が、掠れていた。全身が悲鳴を上げている。だが、少なくとも心臓は動いていた。
「まさか、あんな手を思いつくとはな」
「褒めてる場合か。今ので寿命が縮んだぞ、こっちは」
「咄嗟の思いつきだ。うまくいく保証なんざ、どこにもなかった」
その一言に、背筋がぞっとした。あの瞬間、ライラスは賭けに出たのだ。検体を最優先するという、板の記録から得た推測だけを頼りに。もし外れていたら、俺たちのどちらかが、あの場で終わっていたかもしれない。
ライラスは短く笑ったが、その顔には隠しきれない疲労が滲んでいた。二十数年生きてきた男でさえ、今の一幕は相当に堪えたらしい。
「――結局、あの保守体は倒せなかったわけだが」
「ああ。今の俺たちじゃ、まだ相手にならない。あいつを崩すには、根本的に違う何かがいる」
「宿題が、また一つ増えたな」
ライラスの軽口に、乾いた笑いしか返せなかった。倒せなかった敵、開けられなかった台座、正体不明の検体――積み上がる謎の重さに、体の疲労がさらに輪をかけていくようだった。
キャッシュ領域を目指し、俺たちは満身創痍のまま歩き続けた。半分ほど戻った頃、不意にライラスが足を止めた。
「――待て」
その視線は、俺の頭上――奈落の、遥か上の方に向いていた。
「今、何か……光った、気がする」
言われて空を見上げた瞬間、それが来た。腹の底まで響く轟音が奈落全体を揺らし、疲れ切った体に容赦なく突き刺さる。
[ 大規模イベントを検知 ]
[ 種別:解析不能 ]
[ 影響範囲:奈落全域 ]
「――なんだ、今のは。よりにもよって、こんな時に」
ライラスの声に、隠しきれない疲弊と緊張が同時に滲んでいた。遠くの空に、何かがゆっくりと落ちていくのが見える。小さな光の粒のようだが、その軌道は不自然なほど直線的だった。落下速度は思っていたよりずっと遅く、まるで何かに抗うように、しかし確実に高度を落としていく。
俺は最後の気力を振り絞り、動作解析ログの感度を引き上げた。ノイズ混じりの映像の中、一瞬だけ、白い布地の切れ端と、そこに縫い付けられた紋章らしき図形が映り込む。
(――どこかで、見た気がする)
記憶の奥で何かが引っかかったが、それが何なのか、言葉にする前に映像は再びノイズに呑まれて消えた。
「坊主、見えたか」
「一瞬だけ……布か、装束みたいなものだった。紋章みたいなのも、ちらっと」
ライラスの顔つきが、わずかに強張った。だが何かを言いかけて、結局口をつぐんだ。その沈黙が、いつもの彼らしくない長さだったことに、俺は疲労の中でも気づいていた。
落下する光は、やがて奈落の遥か彼方へと消えていった。着地を示すように、もう一度、地面が大きく揺れる。
「……何が落ちてきたにしろ、今の俺たちじゃ、確かめに行く余力もないな」
ライラスの一言に、頷くしかなかった。満身創痍の体には、これ以上の答えは重すぎた。
教国の噂、鑑定の儀の記録の矛盾、聖女の代役――バラバラだったはずの点が、今の轟音と光を境に、急速に一本の線へと繋がろうとしている。そんな予感だけが、疲れ切った胸の奥に、拭いようもなく残っていた。
この奈落に、また新しい何かが――あるいは、誰かが落とされてきた。それが何を意味するのか、まだ何も分からない。分からないまま、俺たちの足元で、また一つ、歯車が回り始めていた。
俺は自分の手のひらを見下ろした。震えているのは、戦闘の反動のせいだけではない気がした。今日、間違いなく一度死にかけた。ライラスの機転がなければ、今頃どうなっていたか分からない。守れなかった台座、崩せなかった保守体、そして名も知れぬ何かの落下――どれも半端なまま、次の日へと持ち越されていく。それでも、こうして息をしていられることだけは、確かな事実だった。
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【あとがき】
第7章、ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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