揺れる天秤
境界維持プロセスが去った後も、俺たちはしばらくその場を動かなかった。
「――一旦、退くぞ」
ライラスの一言に、異論はなかった。奥に何があるのか、気になる気持ちはある。だが、動作解析ログがまだ完全に戻っていない状態で、これ以上踏み込むのは無謀だった。俺たちは境界の手前まで引き返し、そこからさらにキャッシュ領域まで戻る道を選んだ。
焚き火の前に落ち着いた頃には、頭痛はだいぶ引いていたが、動作解析ログの映像には、まだ細かいノイズが残ったままだった。視界の端に、時折砂嵐のような乱れが走る。これまでの反動とは、明らかに種類が違う疲労感だった。
「――しばらく大人しくしとけ、ってか」
「言われなくても分かってる。今、無理に動いても、また同じ目に遭うだけだ」
ライラスは黙って頷き、荷物から予備の水を取り出して寄越した。俺はそれを一気に呷り、ようやく人心地がついた。
「今日分かったことを、整理しとくか」
ライラスの言葉に頷き、俺は指を折りながら並べていった。
「一つ、未接続セクタには、境界維持プロセスっていう番人がいる。役割は接続の切断と監視」
「二つ、あいつの攻撃は、俺のデバッグ空間への接続そのものを狙ってくる。ハックは軒並み封じられる」
「三つ――」
言葉を切って、俺は自分の手のひらを見下ろした。
「あの土壇場で、自己参照の生成を、初めて意図的に発動させた。だけど、狙った瞬間には来なかった。一拍も二拍も遅れて、しかも接続は部分的にしか戻らなかった」
「頼りにするには、危なすぎる代物、ってことだな」
「ああ。あれは必殺技なんかじゃない。呼んでも来ないことの方が多い、賭けに近い何かだ」
ライラスは炭を突きながら、しばらく黙り込んでいた。
「――器の話、覚えてるか」
「本来もっとデカい枠があって、そこからひと雫だけ漏れてる、って話か」
「今日ので、その線がますます濃くなった気がする。完全なゼロなら、あんな中途半端な発動の仕方はしないはずだ。何かが、確かにそこにある。ただ、蛇口が壊れかけてるだけだ」
蛇口という表現に、思わず笑いそうになった。だが、笑い事ではなかった。壊れかけた蛇口は、いつ完全に閉じるかも、いつ全開になるかも分からない。そのどちらの可能性も、正直、恐ろしかった。
「四つ目も、忘れずに数えとけ」
「四つ目?」
「境界維持プロセスは、板にあった通り『定期巡回』の途中で、たまたまワシらを見つけたわけじゃない。役割が『接続の切断・監視』だ、って自分から名乗ったようなもんだぞ。つまり――」
「――俺みたいな『接続してる奴』が入り込むこと自体、想定内の脅威、ってことか」
「かもな。だとすれば、あの場所は、ただの立ち入り禁止区画じゃない。誰かにとって都合の悪いものが、外に漏れないよう、意図的に囲われてる場所だ」
その言い方に、これまでとは違う緊張感があった。
板の断片から得た情報も、頭の中で並べ直した。境界を維持しているのが「###権限」だとすれば、未接続セクタの奥には、教国上層部の噂に出てくる"遺物"や"開発者専用領域"と、何か地続きの理由があるのかもしれない。確証はない。だが、少なくとも「ただの廃墟」ではなさそうだ、という一点だけは、はっきりしていた。
夜も更けた頃、ライラスがふと思い出したように口を開いた。
「――そういえば、また新しい噂を拾ってきてた」
「教国の内情調査、か」
「ああ。前は『鑑定の儀そのものを疑う声がある』って程度の話だったが、今回はもう少し具体的だ。どうも、調べてる対象が『鑑定の儀の記録』そのものに絞られてきてるらしい」
「記録――過去の鑑定結果を、洗い直してる、ってことか」
「表向きはな。何のためかまでは、ワシにも分からん」
その一言に、胸の奥がざわついた。二十数年前、ライラス自身が下した、口にできない鑑定結果。もし記録そのものが掘り返されているのだとしたら、いずれその糸は、彼のところにも辿り着くかもしれない。
「もう一つ」
ライラスは、いつもより低い声で続けた。
「聖女様の代役だの後継だのって話が、一部の神殿関係者の間で、小声で囁かれ始めてるらしい」
「代役……」
その言葉が、思っていたよりも重く胸に落ちた。表舞台から消えたまま戻らない聖女。それを埋め合わせる動きが、水面下で始まっているのだとしたら、教国という土台そのものが、静かに揺らぎ始めているということだ。
「代わりを立てる話が出るってことは、少なくとも神殿の中じゃ、聖女様はもう戻ってこない前提で動き始めてる、ってことだよな」
「表向きは、まだ誰もそうとは言わんだろうがな。だが、噂ってのは大抵、建前より少し先を歩くもんだ」
ライラスの声には、皮肉とも諦めともつかない響きがあった。俺はしばらく、その言葉を頭の中で転がしていた。
いずれ、この揺れは無視できない大きさになる。それは分かっている。だが今の俺には、目の前に積み上がった宿題の方が、まだ重かった。壊れかけた蛇口。名前のない番人。地図にない第三の区画の、その奥。
「――今はまだ、板の続きだな」
「賛成だ。だが坊主、覚えておけよ」
ライラスは焚き火越しに、まっすぐ俺を見た。
「天秤が揺れ始めたら、いつまでも見て見ぬふりはできん。お前の中の何かも、多分、それを分かってる」
返す言葉が見つからず、俺はただ、燃える炭を見つめ続けた。
未接続セクタの奥に何があるのか。壊れかけた蛇口の向こうに、何が眠っているのか。答えは、まだ何一つ出ていない。それでも、少しずつ積み上がっていく手がかりの重みだけは、確かに感じ取れるようになっていた。
あの日、大聖堂で切り捨てられてから、数えるのをやめるくらい多くの夜を、この奈落で越えてきた。壊すことしかできなかった俺の中に、作る力の芽が生まれ、その芽は今、制御できないまま揺れている。教国という土台もまた、俺の知らないところで、同じように揺れ始めているのかもしれない。
二つの揺れが、いつかどこかで重なる日が来るのか。今はまだ、誰にも分からない。




