切られた接続
板が出揃うまで、さらに三日を要した。
方角は、思っていたよりはっきりと絞り込めた。未参照領域からさらに外れた方向、これまで一度も足を向けたことのない一角。地図らしい地図など存在しない奈落で、それでも「多分こっちだ」と言い切れるだけの手がかりが揃ったことは、ちょっとした収穫だった。
出発してから半日ほど歩いた頃、俺は違和感に気づいた。
「――静かすぎないか、ここ」
「ああ。魔物の気配だけじゃない。もっと根本的な何かが薄い」
ライラスの言う通りだった。いつもならうっすらと感じる、動作解析ログのざわめきのようなもの――背景に常時流れているはずの微細なノイズが、ほとんど聞こえない。まるで、世界の音量そのものが絞られていくようだった。
「引き返すか、って顔だな」
「いや。ここまで来て、それはない」
ライラスは短く笑ったが、その目は油断なく周囲を探っていた。二十数年、この奈落で生き延びてきた勘が、何かを察知しているのが分かる。
俺たちは足を止めず、慎重に歩を進めた。景色そのものは、これまでの吹き溜まりや瓦礫の山とさほど変わらない。だが、進むごとに、あの背景ノイズはさらに薄くなっていく。まるで、世界の解像度が少しずつ落とされているような、そんな感覚だった。
境界線らしきものは、目に見える形では存在しなかった。だが、ある一歩を境に、空気の質感が明らかに変わった。
[ 領域境界を検出 ]
[ 対象:符号▽▽▽(未接続セクタ) ]
[ 接続状態:段階的に低下中 ]
「来たな」
ライラスが呟いた直後、視界の端で何かが動いた。
人型とも、機械とも言えない、輪郭の定まらない影。それが音もなく近づいてくる。試しに動作解析ログで先読みしようとしたが、返ってきたのは、これまで見たことのない反応だった。
[ 境界維持プロセスを検出 ]
[ 役割:接続の切断・監視 ]
[ 対象を捕捉:カイト ]
名乗る間もなく、影が腕を伸ばしてきた。俺はいつもの癖で、地形コライダーを弄ろうとする。
[ コマンド送信:地形コライダーOFF ]
[ ―― 応答なし ―― ]
[ 警告:デバッグ空間への接続が切断されました ]
頭の中が、一瞬真っ白になった。
簡易鑑定も、動作解析ログも、反応しない。分割系統も、空間収納も、コマンドを送る先そのものが消えている。これまでの戦い方を支えていた土台が、根こそぎ抜き取られた感覚だった。
「――坊主!」
ライラスの声で我に返る。影の一撃を、辛うじて体だけで避けた。動作解析ログの先読みなしに、純粋な反射だけで躱す。冷や汗が背中を伝う。
「爺さん、下がってろ! こいつ、狙いが俺に絞られてる!」
「――分かってる! だが一人で受けるつもりなら、承知しないぞ!」
ライラスは叫びながらも、腰の得物で影の側面を牽制する。直接の打撃はほとんど通っていなかったが、それでも一瞬の隙を作ることはできた。その隙に、俺は距離を取り直す。
(――ハックが、全部使えない)
殴られれば痛いし、斬られれば血が出る。今の俺は、ただのLv.238の肉体でしかなかった。それでも並の敵になら負けはしないだろうが、この影は違う。躱すたびに、じわじわと間合いを削られていく。
[ 未接続化:進行度 34% ]
数字の意味はすぐに分かった。あれは、俺という存在そのものを、この世界の裏側から切り離そうとしている。
(――だったら)
ふと、思い出した。あの晩、未参照タグを消したときのことを。あれは、システムに何かを頼んだんじゃない。俺の中にある、残留したMPを使って、俺自身が俺を指し示しただけだ。外への接続じゃなく、内側で完結する行為――だとしたら。
迷っている時間はなかった。俺は影の一撃を紙一重で受け流しながら、意識を自分の内側、震える小数点へと沈めた。
(――俺は、ここにいる)
だが、上手くいかない。狙った瞬間に発動せず、一拍、二拍と遅れる。頭の芯が、期待した熱を持たない。
[ 未接続化:進行度 61% ]
影の腕が、目前に迫る。もう躱しきれない――そう覚悟した瞬間、遅れてきた熱が、ようやく弾けた。
[ 新規参照を生成 ]
[ 対象:自己 ]
[ 接続、部分的に復旧 ]
完全ではない。動作解析ログの映像が、ノイズ混じりに明滅する。それでも、コンマ数秒先の一撃だけは、はっきりと見えた。俺は体を捻り、紙一重でそれをかわす。
影は、しばらく俺を見据えるように動きを止めていたが、やがて興味を失ったように後退し、闇の奥へと溶けて消えていった。
「――生きてるか、坊主」
「……多分な」
膝から崩れ落ちながら、俺は自分の手のひらを見下ろした。震えている。あの力は、便利な必殺技なんかじゃない。呼べば来る保証もなく、来ても制御しきれない、危うい何かだ。
それでも、繋がりを断たれかけたその瞬間、自分の内側から、もう一度繋がりを結び直せたという事実だけは、確かに残っていた。
ライラスが駆け寄り、俺の肩を支える。
「――無事か」
「動作解析ログが、まだノイズだらけだ。完全には戻ってない」
「充分だ。生きて喋ってる」
ライラスはそう言うと、影が消えていった闇の奥へ、鋭い視線を向けた。
「あれが『境界維持プロセス』か。板にあった通り、正体不明の敵じゃない――役割がはっきりしてる分、余計に厄介だな」
「切断、監視……接続を断つこと自体が、あいつの仕事、ってことだよな」
「だとすれば、この先も同じ手で来るぞ。次も、同じように凌げるとは限らん」
その言葉に、反論できなかった。今回、間に合ったのはほとんど運だ。次も同じように、ぎりぎりで繋ぎ直せる保証など、どこにもない。
それでも、俺たちはこの日、未接続セクタの入り口を一歩、確かに越えた。その先に何が待っているのかは、まだ分からない。だが、引き返すという選択肢は、もう俺の中には残っていなかった。




