誰かの運命
板の解読は、その日も夜遅くまで続いた。
崩れかけた文字の海から、意味の通る一文を拾い上げる作業は、正直なところ地味で、根気だけが要求される仕事だった。損傷が激しい板は文字列の半分も読めず、かろうじて残った断片を、他の板の欠片と照らし合わせては、また外れる。その繰り返しだった。だが二十話近くの探索を経て、俺たちなりのコツのようなものは、確かに身についてきていた。似た文字の癖、欠けやすい箇所の傾向、そういう小さな法則性が、少しずつ見えてくる。
「――おい、坊主。これ、見てみろ」
ライラスの声に顔を上げると、彼が手にしていた板の一枚が、うっすらと光を放っていた。以前、初期化未了エリアの近くで拾った、あの保守記録の続きらしい欠片だった。損傷部分の周辺を、根気よく擦り合わせ続けた甲斐があったらしい。
[ 保守記録:断片(解読継続) ]
[ 対象区画:符号▽▽▽(未接続セクタ、と推定) ]
[ 定期巡回の目的:###権限による、境界の維持 ]
[ 最終更新:算出不能(経過時間、規格外) ]
「未接続、セクタ」
声に出して読み上げると、初めて聞く単語の並びが、妙に据わりが悪かった。
「初期化未了、未参照――今度は、未接続、か」
「似たような名前ばかりだが、意味は違うんだろうな。初期化されなかった場所、参照されなくなった場所、そして――繋がってない場所」
「繋がって、ない」
ライラスの指が、板の表面をなぞる。
「これまで見てきた場所は、どれも『壊れて放置された跡地』って感じだった。だが、こいつは違う。『定期巡回』『境界の維持』――誰かが、今も手入れを続けてる場所ってことだ」
その言葉に、背筋が微かに冷えた。廃墟ではなく、現役の何か。しかも、それを維持しているのは、この奈落の管理者めいた権限を持つ何者かだ。
「行けば、分かるのか」
「行かなきゃ分からんし、行っても分からんかもしれん。だが少なくとも、これまでで一番、人の手の匂いがする場所ではある」
「境界の維持、ってのは、外から何かが入るのを防いでる、ってことか。それとも、中の何かが出ていかないように、ってことか」
「さてな。どっちの意味でも、あんまり歓迎される感じはしない」
ライラスは短く笑うと、板を丁寧に脇へ避け、残りの欠片へと視線を移した。次の目的地の輪郭が、少しずつ形を持ち始めていた。あと数枚、周辺の断片を拾えれば、大まかな方角くらいは絞り込めるかもしれない――そんな見通しを立てながら、俺たちはその日の作業を切り上げた。
「――で、いつ出る」
「板が全部揃ってからだ。今の段階で飛び出しても、方角の見当すら付かん」
「準備は」
「乾燥肉と水の残りを数えておけ。それと、あの半透明の個体と当たったときの記録も、もう一度目を通しておいた方がいい。動作解析ログでも先読みしづらい相手が出てくる可能性は、今回も十分ある」
ライラスの声には、いつもの飄々とした調子の裏に、わずかな緊張が滲んでいた。今までの探索とは、どこか質が違う――言葉にせずとも、二人とも同じことを感じ取っているのが分かった。
その夜、焚き火の番はいつも通り交代でこなした。俺の番が終わり、横になったライラスの寝息が聞こえ始めた頃を見計らって、俺はふと、ずっと気になっていたことを口にした。
「――なあ、爺さん。眠ってないんだろ」
「――バレてたか」
闇の中で、乾いた笑い声が返ってきた。ライラスは身体を起こし、燃え残りの炭を見つめる。
「あんたが鑑定士だった頃も、こういう『###権限』絡みの仕事、あったのか」
しばらく、答えは返ってこなかった。俺は急かさず、火の爆ぜる音だけを聞いていた。長い沈黙の後、ようやくライラスが口を開いた。
「――直接触れたことは、ない。だが、な」
その声は、いつもの飄々とした調子から、わずかに低くなっていた。
「鑑定士なんて仕事は、結局のところ、他人の運命の入り口に、判子を押す仕事だ。ワシは長いこと、その判子を、曲げずに押し続けてきたつもりだった」
「――つもり、か」
「一度だけ、曲げなかったことで、誰か一人の運命を、良くも悪くも、決定的に変えちまったことがある」
その一言だけを、ライラスは静かに置いた。名前も、時期も、相手が誰なのかも、一切語られなかった。ただ、火明かりに照らされたその横顔には、いつもの軽口の裏に隠れている、もっと重たい何かが、一瞬だけ透けて見えた気がした。
良くも悪くも、という言い方が、妙に引っかかった。良かったのか、悪かったのか、ライラス自身にも、今なお判断がついていないのかもしれない。二十数年という歳月は、答えを出すには十分すぎるほど長いはずなのに。
「それ以上は、聞くな。まだ、話せる話じゃない」
「――分かった」
俺はそれ以上、踏み込まなかった。似たような重さを、自分も抱えている自覚があったからだ。曲げなかった、あるいは曲げられなかった何かのせいで、人生を丸ごと切り替えられた者同士――そういう意味では、俺とライラスは、思っている以上に近い場所に立っているのかもしれない。
「――寝ろ、坊主。明日も板と睨めっこだ」
ライラスはそれだけ言うと、また横になり、こちらに背を向けた。その背中は、もう何も語る気配を見せなかった。
焚き火が、また一度、小さく爆ぜる。
俺は横になったまま、しばらく星ひとつない、灰色に淀んだ天井を見上げていた。ライラスが何を曲げず、何を失ったのか。その答えに辿り着く日が、いつか来るのだろうか。今はまだ、想像することしかできない。
未接続セクタ。そこに何があるのかは、まだ分からない。だが、この奈落を巡る旅は、少しずつ――俺たちが思っている以上に、深いところへ近づき始めているような気がしてならなかった。
目を閉じる直前、頭の片隅で、あの三つの疑問符と、今夜聞いたばかりの短い告白が、なぜか一つの糸で繋がっているような、根拠のない予感がよぎった。




