小さすぎる器
頭痛が完全に消えたのは、三日目の朝だった。
その間、俺は大人しくライラスの言いつけを守り、板の解読と焚き火の番だけをして過ごした。キャッシュ領域の中は相変わらず静かで、魔物の気配ひとつしない。聞こえるのは薪の爆ぜる音と、時折ライラスが漏らす独り言くらいのものだった。
だが四日目の朝、粥代わりの干し肉を齧りながら、俺は言った。
「――もう一回、試させてくれ」
「あの、自分で自分を指し示す奴か」
「ああ。あれがどういう理屈で起きたのか、ちゃんと確かめておきたい」
ライラスはしばらく俺の顔を睨んでから、小さく息を吐いた。
「体調は、嘘じゃないんだろうな」
「頭も痛くない。手も震えてない。多分、今なら大丈夫だ」
「――なら、止めはせん。だが、少しでもおかしな顔をしたら、ワシがその場で引っぱたいてでも止めるからな」
了承をもらい、俺はその場に座り込んで目を閉じた。意識をいつものように、デバッグ空間へと沈めていく。360度を巡る光るコード螺旋。見慣れた景色の中で、俺は自分の中の、あの震える小数点を探した。
[ 簡易鑑定 ]
[ MP:0.0000000003(残留値) ]
[ 適性:??? ]
あの夜と同じ数字が、そこにあった。俺は意識を集中させ、あの瞬間と同じイメージを組み立てる。俺は、ここにいる。俺が、俺を指し示す――。
[ コマンド送信:新規参照の生成 ]
[ 対象:自己 ]
[ エラー:発生条件を満たしていません ]
[ 必要条件:有効な参照の喪失(検出されず) ]
何も起きなかった。頭の芯が熱くなる、あの感覚すら訪れない。ただ、コード螺旋がいつも通り静かに巡っているだけだった。
目を開けると、ライラスが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「――どうだ」
「駄目だ。うんともすんとも言わない」
俺は今見た文字列を、そのままライラスに伝えた。「有効な参照の喪失」が条件らしい、と。
「つまり、あの時みたいに、消えかけてなきゃ動かない、ってことか」
「多分な。あの時は本当に、消去まで秒読みされてた。今回は……ただの実験だ。システムから見りゃ、大した危機でも何でもないんだろう」
試しに、イメージを変えてみることにした。自分を指し示す、というより、境界そのものを曖昧にする、あるいは意図的に「参照が薄い」状態を装う――何度か違う切り口を試したが、返ってくるのは判で押したような同じ拒絶だった。
[ エラー:発生条件を満たしていません ]
三度、四度と繰り返すうちに、こめかみの奥がじわりと重くなってきた。頭痛というほどではないが、あの晩に感じた「感覚の希薄化」に似た、薄い違和感がある。
発想を変え、空間収納系統――個人用未読込バッファのやり方を流用できないかも試してみた。あちらは「読込フラグ」の書き換えだ。今回の「参照」とは扱う階層が違うのは分かっていたが、駄目で元々だった。
[ コマンド送信:読込フラグの書き換え ]
[ 対象:新規参照 ]
[ エラー:対象は読込フラグを持ちません ]
やはり、まったく別の仕組みらしい。分割にせよ収納にせよ、これまでのハックはどれも「既にある何か」に触れるための技だった。だが「新規参照の生成」は、そもそも触れる対象がまだ存在しない場所を扱う。勝手が違いすぎて、応用の糸口すら掴めなかった。
五度目の試行の後、さすがに頭がぼんやりし始めた頃、ライラスが焚き火の枝を突きながら、ぽつりと呟いた。
「――もうその辺にしとけ。無理に磨り減らして得るもんじゃなさそうだ」
「……だな」
俺は素直に従い、地面に座り込んだまま、荒くなった息を整えた。ライラスはしばらく黙って火を見つめていたが、やがてぽつりと切り出した。
「――なあ坊主。ワシは昔、腐っても鑑定士だった。何百人分ものステータスを、この目で見てきた」
「知ってる」
「その中で、MPって数字を持ってた奴は、正直そう多くはなかった。適性がある奴だけが持つ、特別な枠だからな。だが、持ってる奴は決まって、桁が違った。低くても数千。高い奴になると、万の位まで届いてた」
俺は自分の中の数字を、もう一度思い浮かべた。0.0000000003。小数点の彼方で、震えているだけの、名前もない値。
「……それに比べたら、俺のこれは」
「話にならんほど半端だ。だがな」
ライラスは枝の先で、地面に小さな丸をひとつ描いた。
「半端に"ある"ってのが、むしろ気になる。適性なしのはずのお前に、本来なら存在すらしないはずの枠が、ほんの少しだけ、漏れ出してる。まるで――」
「まるで?」
「本当はもっとデカい器があって、その底に、ほんのひと雫だけこぼれてる。そんな感じがする」
その表現は、妙にしっくりきた。俺のMPは、ゼロから生えてきた新しい何かじゃない。どこかにあるはずの、もっと大きな枠の、ごくわずかな漏れ――そう考えると、あの夜の跳躍にも説明がつく気がした。追い詰められた瞬間だけ、その器の蓋が、ほんの一瞬だけ緩んだのだとしたら。
(――だったら、器の本体はどこにある)
適性:???。あの見慣れない表示と、この漏れ出した数字は、きっと同じ根から生えている。だが今の俺には、それを確かめる手立てがなかった。
「本体を探すにしても、闇雲に頭を絞ったところで埒が明かん。それより――」
ライラスは荷物の中から、解読途中の板を一枚取り出した。
「無理に引き出そうとするより、まずはこっちだ。未読の欠片、まだ何枚も残ってる。あの中に、もう少し手がかりがあるかもしれん」
「――だな」
立ち上がりながら、俺は自分の手のひらを見下ろした。震えてはいない。だが、その奥のどこかで、まだ見ぬ器が確かに存在している気配だけは、消えずに残っていた。
その日の残りは、板の解読に費やした。目立った進展はなかったが、焦る気持ちはなぜか湧いてこなかった。急いで引き出そうとしても開かない扉なら、鍵の方を探す方が、多分、正しい。
夜、焚き火の番をライラスに任せて横になりながら、俺は自分の手のひらをもう一度見つめた。あの晩、確かにここから何かが生まれた。理屈も、再現の方法も分からないままだが、器そのものは今も、確かにこの体のどこかにある。
いつか、その底を覗き込める日が来るのだろうか。
答えの出ない問いを抱えたまま、俺はゆっくりと目を閉じた。




