名前のない力
キャッシュ領域に戻ってから、俺はほとんど丸一日、泥のように眠り続けたらしい。
目を覚ましたとき、真っ先に目に入ったのは、焚き火の番をしながら板を睨んでいるライラスの横顔だった。
「――お、起きたか。三日は覚めんかと思ってたぞ」
「そんなに寝てたのか、俺」
「まる一日と半分、ってとこだ。魂まで抜けたような顔で倒れてたからな、少しは心配した」
軽口の調子は、いつも通りだった。だが、こちらを見る目の奥に、まだ拭いきれない何かが残っているのが分かった。
俺は身体を起こし、両手を開いたり閉じたりしてみる。感覚はいつも通りだ。頭痛も、あの日のような虚脱感も、綺麗さっぱり消えていた。
「MP、まだ残ってるかどうか、見てみるか」
「――今すぐは、やめとけ」
ライラスの声に、珍しく有無を言わせない響きがあった。
「あの後の坊主の顔、自分じゃ見えなかったろうが。ワシは見た。二度と見たくない類の顔だった」
「……悪い」
「謝るこっちゃない。だが、少なくとも今日は駄目だ。頭が冷えるまで、指一本触るな」
俺は素直に頷いた。反論できるだけの根拠を、こちらも持ち合わせていなかった。
しばらく無言で焚き火を眺めた後、ライラスが口を開いた。
「――なあ、坊主。あの時のこと、少し聞かせろ」
「話せる範囲でなら」
「お前は『壊したんじゃない、作ったんだ』と言ったな」
「ああ」
「ワシは鑑定士として、他の勇者様方の魔法ってやつを、何度か遠目に見てきたことがある。詠唱があって、属性の色があって、術式が展開されて――派手だろうと地味だろうと、どれも『何かを起こす』ための、決まった手順があった」
ライラスは炭で地面に、円をひとつ描いた。
「お前のあれは、そのどれとも似ていなかった。手順がない。色もない。ただ――」
「ただ?」
「『繋がった』って感じだった。傍から見ててもな」
その表現は、俺自身の感覚とも、そう遠くなかった。
「魔法、じゃないと思う。少なくとも、あんたが知ってる意味での魔法とは」
「なら、何だ」
「分からない。ただ――」
俺は自分の手のひらを、もう一度見下ろした。
「ハックは、元からあるものに介入する技術だ。フラグを弄る。値を盗み見る。存在しているものの、隙間を突く。だけど今回のあれは、何もないところに、新しく何かを結びつけた。方向が、真逆なんだ」
「壊す才能と、作る才能、ってわけか」
「才能かどうかも怪しい。一度きりの、まぐれかもしれない」
「――だと、いいがな」
ライラスは短くそう呟くと、それ以上は追及してこなかった。答えの出ない話を無理に引き延ばさない、彼らしいやり方だった。
俺たちはその日、遠出はせず、キャッシュ領域に留まって板の解読を進めることにした。半分は俺の体調を気遣ってのことだったが、もう半分は、単純に手元の作業が溜まっていたからだ。
拾い集めた板のうち、いくつかは少しずつ文字列を明らかにし始めていた。
[ 保守記録:断片(続き) ]
[ 対象区画:初期化未了エリアと、性質が酷似 ]
[ ###権限による定期巡回、記録あり ]
[ ―― 以降、判読不能 ―― ]
「またこの手の話か」
「ああ。前に見つけた奴と、繋がってそうな内容だな」
断片同士を並べていくと、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がってくる。この奈落のどこかに、まだ見ぬ異常区画がある。何者かが、定期的にそこを見回っている。誰が、何のために――そこまでは、まだ分からない。
夕方近く、板の山を一通り整理し終えた頃、ライラスがふと思い出したように口を開いた。
「――そういえば、また噂を拾ってきた。前に話した、教国の内情調査の件だ」
「進展でもあったのか」
「本格的に、ってやつだな。あちこちの神殿から、鑑定士やら記録係やらが、内々に呼び集められてるらしい。何を調べてるのかまでは分からんが」
「聖女様は」
「相変わらずだ。表には出てきてない。ただ――」
ライラスは、そこで一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「今回は毛色が違ってな。今までみたいな、単発の内偵ってレベルじゃない。複数の神殿がまとめて巻き込まれて、ちょっとした騒ぎになりかけてるらしいぞ」
その一言に、胸の奥で何かが小さくざわついた。
「それは――」
「どうなるかは、まだ分からん。今の時点で言えるのは、それだけだ」
俺は黙って、燃える炭を見つめた。
いずれ決着をつける日が来る。それは分かっている。だが今の俺には、目の前に積み上がった謎の方が、まだ重かった。適性欄の三つの疑問符。震えるだけのMP。名前のない、一度きりの力。片付けなければならない宿題は、もう十分すぎるほどあった。
「――今はまだ、いい」
誰に言うでもなく、俺はそう呟いた。
ライラスは何も言わず、ただ小さく頷いただけだった。
焚き火の火が、パチリと爆ぜる。
俺は懐から、まだ解読の終わっていない板を一枚取り出し、その文字列に、もう一度目を落とした。
名前のない力の正体も、この板が示す「続き」の行き先も、まだ何一つ分かってはいない。それでも、確かなことがひとつだけあった。
俺はもう、あの日、大聖堂で切り捨てられた「オールステータス10」のバグ人間じゃない。
壊すことしか知らなかった俺の中に、今、何かを「作る」力の芽が、確かに生まれていた。




