無を、有に
頭痛が完全に引くまで、丸一日かかった。
その間、俺は大人しく板の解読作業に専念していた。ライラスは相変わらず、そばで釘を刺すように「もう無茶はするな」と繰り返していたが、内心では俺と同じくらい、あの「震える数字」の正体が気になっているらしかった。
二日目の朝、俺たちは装備を整え直し、未参照領域のさらに奥――まだ足を踏み入れていない一角へと向かうことにした。
「奥に行けば行くほど、質のいい欠片が眠ってる可能性が高い、ってことだよな」
「理屈の上ではな。だが、それだけ厄介な連中も眠ってる可能性が高い、ってことでもある」
ライラスの忠告通り、瓦礫の密度は奥に進むにつれて増していった。景色は相変わらず灰色がかった残骸の山ばかりだったが、時折、これまで見なかった規則性――まるで誰かが定期的に均しているような、不自然に整った瓦礫の列が目に入るようになった。
(――誰かが、手入れしてる?)
動作解析ログに意識を向けた瞬間、俺は違和感の正体に気づいた。
[ 領域内活動:定期清掃プロセスを検出 ]
[ 対象:未参照個体(優先度:高) ]
「爺さん、これ――」
言い終わる前に、瓦礫の隙間から、無数の小さな影が湧き出した。
拳ほどの大きさの、鈍色の欠片じみた小型個体。虫のようにも、壊れた機械の破片のようにも見えるそれらが、規則正しい隊列を組みながら、こちらへ向かって滑るように近づいてくる。
[ 対象を検出:×47 ]
[ 種別:領域維持プロセス(回収個体) ]
[ 役割:未参照オブジェクトの回収・消去 ]
「掃除屋、ってやつか」
「笑えない冗談だな、坊主。ここにある瓦礫、俺たちが吹き溜まりって呼んでるもんの正体が、まさにコイツらの回収対象、ってわけだ」
ライラスの声に、微かな緊張が滲む。
「――待てよ。俺たちも、板を抱えて長々とここに居座ってる」
「教国にとっちゃ、ワシらも坊主も、とうの昔に『不要品』判定済みだ。奇遇なもんだな」
軽口のつもりだったのだろうが、笑えなかった。俺たちは、まさに「未参照」と呼ぶにふさわしい身の上そのものだった。
考えている暇はなかった。先頭の個体が、俺の腕に触れた瞬間、視界に見慣れない警告が飛び込んできた。
[ 警告:対象に「未参照タグ」が付与されました ]
[ 対象:カイト ]
[ 消去まで:60 ]
(――タグ?)
石を投げて弾道上のスタンを誘発する、いつもの手癖を試す。個体の一体が短く痙攣し、地面に落ちた。だが、すぐさま別の個体がその穴を埋め、隊列に乱れはない。
[ 判定:個体は独立した末端プロセスです ]
[ PARENT_NODE:存在しません(領域自体が発生源) ]
(――親がいない。今度はそういう話ですらない、のか)
群体だった複合体のときとは、根本的に違う。あれは「壊せば増える瓦礫」だったが、これは「領域そのものが吐き出し続ける末端」だ。何体倒しても、発生源を絶たない限り意味がない。そして、その発生源はどこにも見当たらなかった。
試しに、タグそのものを「未読込バッファ」に押し込めないかと考える。空間収納系統――あの便利なハックの応用だ。
[ コマンド送信:対象の読込フラグを一時的にOFFへ ]
[ 対象:未参照タグ ]
[ エラー:タグはオブジェクトではありません ]
[ この処理形式には対応していません ]
(――オブジェクトじゃない、だと)
コライダーもない。PARENT_NODEもない。空間に浮かぶ「情報」そのものだから、いつものやり方じゃ触れられない。
「――坊主!」
ライラスの声に振り向くと、彼の腕にも、同じ個体が触れたところだった。
[ 警告:対象に「未参照タグ」が付与されました ]
[ 対象:ライラス ]
[ 消去まで:58 ]
カウントダウンの数字が、無情に減っていく。
地形コライダーをOFFにする。分割系統を叩き込む。これまで積み上げてきたハックを、片端から試した。だが、どれもタグそのものには一切干渉できなかった。物理的な現象に介入する技は、物理的でないものの前では、ただの空振りだった。
[ 消去まで:34 ]
冷や汗が背中を伝う。頭の中で、これまでの成功体験が次々と否定されていく。壊す。分ける。消す。書き換える。どれも通じない。
(――待て。壊すのが駄目なら)
ふと、あの夜の光景が蘇った。小数点の遥か奥で、微かに震えていた数字。
(――ゼロじゃなかった、あれ)
「未参照」ってのは、要するに、誰からも参照されていない、指し示されていない、ということだ。ならば――誰かが、俺を指し示せばいい。他の誰でもいい。何でもいい。いや――
(――自分自身でも、いいはずだ)
試したことのない発想だった。今までの俺は、既にある何かを壊す、消す、書き換える。そういうやり方しか知らなかった。だが今回、必要なのは真逆だ。何もないところに、新しく「参照」を書き加える。
[ 消去まで:19 ]
時間がない。俺は残っていたわずかなMP――あの、小数点の奥で震えていた、名前もない値に、意識のすべてを注ぎ込んだ。
(――俺は、ここにいる。俺が、俺を指し示す)
[ 新規参照を生成 ]
[ 対象:自己 ]
[ 参照元:自己(再帰) ]
[ MP消費:0.0000000...(残留値、全消費) ]
頭の芯が、これまでにない熱を持った。頭痛とも違う、もっと根源的な、何かが「生まれる」ときの感覚。
視界の中で、消えかけていたはずの自分の輪郭が、一瞬だけ、淡く発光したように見えた。
[ 未参照タグ、解除 ]
[ 対象は現在、有効な参照を保持しています ]
数字が、消えた。
安堵する間もなく、俺は隣のライラスに向き直った。同じイメージを、今度は他人に向けて押し込む。上手くいく保証なんて、どこにもなかった。
「爺さん、動くな――!」
[ 新規参照を生成 ]
[ 対象:他者 ]
[ 参照元:自己 ]
[ 警告:対象範囲外の書き込みです ]
[ 実行しますか? ]
(――迷ってる暇はない)
[ 実行 ]
[ 未参照タグ、解除 ]
[ 対象は現在、有効な参照を保持しています ]
ライラスの腕から、警告の文字列が掻き消える。
群体の個体たちは、目標を見失ったかのように動きを止め、一斉に向きを変えると、何事もなかったかのように瓦礫の山の奥へと引き返していった。有効な参照を持つ者は、もう「回収対象」ではないらしい。
静寂が戻る。
俺はその場に、膝から崩れ落ちた。
「――坊主!」
「大丈夫……だと思う。多分」
全身から力が抜けていく。頭痛というより、体そのものが空っぽになったような虚脱感だった。今までのクロックダウンの反動とは、明らかに種類が違う。
ライラスが駆け寄り、俺の顔を覗き込んだ。その表情には、これまで見たことのない色――畏怖に近い何かが浮かんでいた。
「今の……お前、一体何をした」
「壊したんじゃない。……多分、初めて、何かを『作った』んだと思う」
「作った?」
「ああ。今までのハックは全部、元からあるものを壊すか、書き換えるかだった。今回は違う。何もないところに、新しく繋がりを、作った」
ライラスはしばらく黙って、俺の顔を見つめていた。
「――魔法、ってやつか」
「分からない。あんたが知ってる魔法とは、多分、根本から違う。もう一回やれって言われても、今すぐには無理だ。何をどうやったのか、自分でもよく分かってない」
嘘じゃなかった。あれは技術じゃなく、ほとんど本能で押し込んだだけの、一度きりの跳躍だった。
「――再現性がない、ってことか」
「今のところは。だけど」
俺は震える手を握りしめた。
「あの『???』の中身に、少しだけ触れた気がする」
ライラスは何も言わず、ただ黙って俺の肩を支え、立ち上がらせてくれた。
未参照領域の奥で、俺たちはしばらく、無言のまま立ち尽くしていた。頭上には、相変わらず灰色の空気が淀んでいたが、その中にほんの少しだけ、これまでとは違う何かが芽生えた予感が、確かにあった。




