落ちてきた証人
灰色の空間を抜け、見慣れた奈落の巨木の森へ戻ってきた頃には、日――と呼べるかどうかも怪しい、頭上の淡い光の周期――が二度ほど入れ替わっていた。
いつものキャッシュ領域に近づいたところで、俺の足が止まった。
悲鳴が聞こえた。
「――誰かいる」
ライラスの返事を待たず、俺は音のした方へ駆け出していた。
木々の合間に、動作解析ログが即座に反応を返す。
[ 対象を検出:人間・LV1 ]
[ 敵性個体との接敵中 ]
俺の何百分の一の力もなさそうな、痩せた青年が、崩れかけた鎧を纏ったまま、大型の甲殻モンスターに追い詰められていた。武器は既に手放している。顔は恐怖で完全に固まっていた。
あの日の自分と、嫌でも重なった。
迷う理由なんて、どこにもなかった。
俺は一歩でモンスターとの距離を詰め、拳を叩き込む。抵抗らしい抵抗もなく、その巨体は粒子になって弾け飛んだ。
残された青年は、しばらく俺を見上げたまま、声も出せずにいた。
「大丈夫か」
「……あ、あ……」
言葉にならない嗚咽だけが漏れる。よほど怖い思いをしたのだろう。俺はそれ以上急かさず、ライラスと二人、彼が落ち着くのを待った。
ようやく言葉を紡げるようになった頃、彼は自分の名も名乗らないまま、ぽつぽつと事情を話し始めた。
彼は教国の下級神官兵で、つい先日まで、教国内部で密かに進められていた「ある調査団」の護衛についていたのだという。
「調査団……」
「鑑定の儀の、正確性についての……内密の、調査でした。高位の聖職者様が、密かに人を集めて……」
ライラスと俺は、思わず顔を見合わせた。噂話の域を出なかったものが、初めて生身の証言として目の前に現れた瞬間だった。
「その調査で、何か見つかったのか」
「わかりません……。ただ、調査団の一人が、何かを見つけたと騒ぎになった直後に、僕は……見張りを外れていたという理由だけで、こちらに」
あまりにも理不尽な理由だった。だが、この世界の理不尽さは、俺自身が誰よりもよく知っている。
「聖女様は……?」
俺は、聞くつもりのなかった質問を、また口にしていた。
青年は少し考え込んでから、記憶を辿るように答えた。
「ここしばらく、公の場にお姿を見せていません。教国は『静養中』と発表していますが……その、噂では」
「噂では?」
「あの完璧だった聖女様が、何かに追い詰められているような、そんな噂も……すみません、僕もそれ以上は」
それだけ言うと、青年は精魂尽き果てたように俯いてしまった。
俺はしばらく、彼の震える背中を見つめていた。
あの日、俺を切り捨てたときの、氷のように冷たい無表情。あの完璧だったはずの聖女が、今、何かに追い詰められている――そう聞いても、胸の中に湧いてくるのは、単純な喜びじゃなかった。もっと複雑な、名前のつけられない感情だった。
「――なあ、あんた。これからどうするつもりだ」
俺は青年に問いかけた。
「わかりません……。ただ、教国に戻る術はもうありませんし……ここで、独りで生き延びる自信も」
「なら」
ライラスと共に、と続けようとした俺を、青年は弱々しく首を振って遮った。
「お気持ちだけ、受け取ります。……ですが、僕は僕なりに、この理不尽と向き合ってみようと思います。あなたのように強くはなれないかもしれませんが……せめて、誰かに助けられただけで終わりたくはない」
その目には、絶望に押し潰されながらも、確かに小さな光が残っていた。
俺はそれ以上、何も言わなかった。ライラスも同じだった。
青年は一晩、キャッシュ領域で休んだ後、簡単な知恵と道具をライラスから譲り受け、自分の足で、奈落の別の方角へと歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は懐にしまった、あの保守記録の板に触れた。
(この世界には、もう誰も見ていない)
(それでも――俺を切り捨てたルールだけは、しぶとく生き残ってる)
聖女アナスタシア。あんたが今、何に追い詰められているのかは知らない。だが、いずれ決着をつけるその日まで、俺はこの奈落で、誰にも咎められない力を、静かに研ぎ澄まし続ける。
焚き火の爆ぜる音が、今日もいつも通り、静かな森に響いていた。




