誰もいない場所
足を踏み入れた瞬間、音が消えた。
風の音も、虫の羽音も、遠くで響いていたはずの獣の唸りも、何もかもが。
見渡す限り、灰色だった。地面も、空も、その境界すら曖昧な、のっぺりとした灰色の空間。巨木の代わりに、ところどころに置かれているのは、木とも岩ともつかない、ただの直方体だった。表面には模様も質感もなく、まるで「とりあえず置いておいた」とでも言うような、投げやりな存在感だけがある。
「……なんだ、ここは」
ライラスの声が、やけに大きく響いた。反響すらしない、乾いた声だった。
俺は動作解析ログに意識を向ける。
[ 描画データ:未実装(プレースホルダーを表示中) ]
[ このエリアは制作途中のデータです ]
(プレースホルダー……仮の姿、ってことか)
この世界の「本番」の部分を、これまで俺たちは当たり前のように歩いてきた。だが、ここは違う。まだ、誰の手も入っていない。あるいは――入るはずだった手が、途中で止まったままの場所。
ゆっくりと歩を進めると、灰色の空間の中心に、一つだけ異質なものが立っているのが見えた。
人型だった。
だが、生きているようには見えない。両腕を真横に、真っ直ぐ広げた姿勢のまま、身じろぎ一つせず立ち尽くしている。顔にあたる部分には目も鼻も口もなく、のっぺりとした灰色の球体があるだけだった。
「――化け物か?」
ライラスが警戒して身構える。だが、動作解析ログはそれに、これまで見たどの敵とも違う反応を返した。
[ 対象は非戦闘個体です ]
[ 状態:待機(無限ループ) ]
[ 最終アクセス:###年前 ]
(――何百年も、こうしてただ、突っ立ってた……?)
俺はゆっくりと近づいた。危険を示す反応は一切ない。まるで最初から、そういう風に作られて、そのまま置き去りにされた「何か」のようだった。
足元に、小さな板状の物体が転がっていた。手に取ると、それは表面に見覚えのある文字列を浮かび上がらせた。
[ 保守記録:断片 ]
[ 本エリアは経過観察後、正式サービスへ統合予定でした ]
[ 保守担当:未割当 ]
[ ―― 以降のログは損傷により復元できません ―― ]
しばらく、誰も口を開かなかった。
「爺さん。これ、多分――」
「言わんでいい。読めなくても、雰囲気くらいは分かる」
ライラスは、板を見つめたまま、ゆっくりと呟いた。
「誰かが、まだ手を入れるつもりだった場所、ってことだろう。……で、その『誰か』は、随分長いこと、ここに戻ってきちゃいない」
その言葉が、妙に重く胸に落ちた。
この世界を作った「創世の御方」。教国が何百年も崇め奉ってきた存在。その正体が本当に「開発者」だったのだとしたら――彼らは、とうの昔にこの世界を放り出して、二度と戻ってきていない、ということになる。
誰も見ていない。誰も管理していない。ただ、最初に組まれたルールだけが、惰性で今も動き続けている。
(――だったら)
俺は、突っ立ったままの人型の「何か」を見上げた。
(このルールを書き換えるのに、遠慮する相手なんて、最初からどこにもいないんじゃないのか)
背筋を、寒気とも興奮ともつかない感覚が駆け抜けた。
俺という「バグ」を切り捨てたこの世界には、それを咎める管理者すら、もういないのかもしれない。だとしたら――ここから先、この世界のルールをどこまで書き換えられるかは、単純に、俺自身の力量次第、ということになる。
「坊主、顔が悪い笑い方になってるぞ」
ライラスの声で、俺は我に返った。
「悪いな、爺さん。ちょっと、面白いことを考えてた」
「面白いこと、ね。まあ、いい。ここに長居するのは、あまり気分のいいもんじゃない。戻るぞ」
俺は頷き、手にした板を懐にしまった。
振り返ると、灰色の空間に立つ人型の「何か」は、相変わらず何も語らず、ただそこに立ち続けていた。
まるで、いつか戻ってくるはずだった誰かを、今も律儀に待ち続けているみたいに。




