第1話 午前五時四十分の花柄
午前五時十二分、朝凪駅に着いた列車から降りたのは、私を含めて七人だった。
十月の空はまだ夜の色を残していて、ホームの蛍光灯だけが妙に白い。吐く息は薄かったが、海から来る風は制服の袖口へ容赦なく入り込んだ。
県立あすなろ高校へ間に合う列車は、これしかない。
次は午前八時十二分着。ホームルームは八時二十五分。駅から学校までは徒歩十八分。走れば、という意見は却下した。転校初日に息を切らして教室へ飛び込み、担任から「意欲がありますね」と誤解される未来が見えたからだ。
私は駅前の時計を一度見て、地図アプリを閉じた。
母が用意した職員住宅には、まだ開いていない段ボール箱が六つ残っている。昨夜も母は帰りが遅く、私が作った焼きうどんをラップの下で冷たくした。朝は顔を合わせないまま家を出た。
学校へ早く着くことは、少なくとも今の私には都合がよかった。
暗い住宅街を抜け、川沿いの坂を上がる。あすなろ高校の校舎が見えたころ、スマートフォンの表示は五時二十九分だった。
西玄関は閉まっていた。
当然だと思う。生徒が朝の五時半に来ること自体、学校という場所の想定から外れている。
軒下に立ち、風を避ける。校庭の端には黒い木立があり、その向こうに古い二階建ての建物が見えた。東側が大きなガラス窓になっていて、館内にだけ明かりがついている。
五時三十九分。
古い建物の扉が内側から開いた。
「おはようございます。利用ですか」
声をかけてきたのは、眼鏡をかけた男子生徒だった。制服の胸元に、生徒会書記と書かれた細長い名札がある。
「利用というか、西玄関が開いていないので」
「それなら利用です。黎明館は五時四十分開室。理由は要りません」
彼は腕時計を見た。私のスマートフォンでは、まだ五時三十七分だった。
「その時計、三分進んでる」
「進めています。遅れるより合理的です」
「二つの時刻を覚える手間が増える」
彼は一秒だけ黙り、それから扉を大きく開けた。
「初対面でそこを指摘した人は初めてです。どうぞ」
古い図書館には、紙と木と、かすかな麦茶の匂いがした。
ストーブの近くには長机が三つ並び、窓際には一人用の机が置かれていた。書架の間を腰ほどの衝立が仕切っている。二十人ほどの生徒は、眠る者、課題を進める者、イヤホンへ耳を預ける者と、それぞれの朝を過ごしていた。
誰も私を見ない。
正確には、一度だけ見て、すぐに自分の朝へ戻った。
「相良智です。二年。生徒会書記。毛布はどれがいいですか」
智は大きな籠を指した。
籠には青い魚柄、茶色い虎柄、片耳の折れたパンダ柄が重なっていた。その中に、ひときわ古い花柄の毛布が一枚あった。薄い桃色の布地に、小さな青い花。端には何度も縫い直した跡がある。
「別に、毛布は」
「要らなくなったら返してください。借りる理由も、断る理由も聞きません」
言い方だけは事務的だった。
私は花柄を選んだ。
智が毛布を持ち上げた瞬間、その端を自分で踏んだ。
「あ」
彼の身体が前へ傾く。手には貸出台帳があった。
人間は、とっさのときに何を守るかで本性が出るらしい。
智は左肘を机へぶつけながら、両手で台帳を頭上へ掲げた。眼鏡がずれ、膝を床につき、それでも台帳だけは無傷だった。
「大丈夫?」
「記録は無事です」
「あなたの肘を聞いた」
「肘は再発行できます」
「できない」
近くで笑い声がした。
魚柄の毛布にくるまった男子生徒が、イヤホンを外してこちらを見ている。丸い頬と、寝癖の跳ねた髪。机の上には教科書と小型の録音端末が並んでいた。
「相良先輩、今のは貸出台帳防衛術ですか」
「海東、音声教材へ戻って」
「はい。現在、主人公が嵐の海へ出るところです。先輩も床へ出ました」
「私は航海していない」
智は何事もなかったように立ち上がり、花柄毛布を私へ差し出した。
「木崎奏です。今日、転校してきました」
「二年の木崎さんですね。聞いています」
奥のカウンターから声がした。
二十代後半くらいの男性が、紙コップを並べている。首から学校司書の名札を下げ、毛布の数を一枚ずつ確認していた。
「斎木尚久です。温かい麦茶があります。アレルギー表示が必要な物は置いていません。体調が悪い場合は言ってください。話したくないことは、話さなくて構いません」
隣では、白髪の用務員らしい男性が窓の鍵を確かめていた。
私は毛布を膝へかけ、窓際の机に座った。
暖かかった。
ただ温度が高いという意味ではない。人の家の匂いがしない毛布だった。誰の事情も染みついていない代わりに、何人もの手で洗われ、縫われ、次の人へ渡されてきた匂いがした。
端の刺繍へ指が触れる。
濃い青の糸で、小さく「W・W」と縫われていた。
「それ、一番古い毛布です」
尚久さんが言った。
「二十六年前から補修しながら使っています。年に一度、繊維の状態を確認して、冬だけ出しています」
「学校の備品なんですか」
「備品です。ですから相良くんが転んでも、台帳は守らなければなりません」
「斎木さんまで」
智が眼鏡を直した。
東の空が少しずつ明るくなった。大きな窓から、校庭のあすなろの影が細長く床へ伸びてくる。黒い枝の形が、花柄毛布の端へ触れた。
そのとき、尚久さんが貸出票へ私の名を書こうとして、手を止めた。
「木崎……奏さん」
「はい」
「いえ。珍しい名字ではないですね」
言葉とは逆に、その目は私の顔を確かめていた。
用務員の男性も、窓辺から一度こちらを見た。
私は問い返さなかった。
この場所では、理由を聞かれない。
なら、私も今は聞かないことにした。
七時十分になると、智が小さな鐘を鳴らした。
「閉室です。毛布を返して、各自の教室へ移動してください」
魚柄の男子が毛布を畳みながら、私へ頭を下げた。
「海東瑚大です。一年です。転校初日に朝五時台から来る人は、だいたい何かあります」
「あなたも?」
「うちは魚屋なので、配送車に乗るとこの時間です。何かは魚です」
「深刻そうに言わないで」
瑚大は笑った。
私も、ほんの少しだけ笑った。
教室へ向かう前、花柄毛布を返した。智は台帳の返却欄へ時刻を書き込む。
「明日も開いています」
「毎日?」
「平日は」
「そう」
また来るとは言わなかった。
それでも教室へ向かう廊下で、私は西玄関前の冷たい十分間より、あの花柄の方を思い出していた。
翌朝の全校集会で、教頭が一枚の紙を読み上げた。
「旧図書館黎明館は、来年三月三十一日をもって一般利用を終了します」
体育館の冷えた空気の中で、私は膝の上にない花柄毛布を探した。




