その傷痕
遅筆ですみません。バタバタしておりました。
(土曜の山手線って、こんなに空いてるんだな…)
桂は先程までの出来事を思い返しながら心地よい陽光の差す電車に揺られていた。
結局、島谷は爆睡で起きず。
不貞腐れた椿は、
「はー、使えねぇ」と言ってカップ麺を取り出してお湯を沸かし始めた。
「桂、食うだろ?」と言われて「え!?いや、あの…エッグベネディクトがまだお腹に…残ってるんだけど…」と返すと椿は舌打ちして、
「あっそ。じゃーもう帰れ。」と一言。
「アタシが大食いみたいじゃんかよ…」と頬を膨らませる椿に桂は大慌てで、
「違うよ!椿と俺じゃ運動量が全然違うでしょ!?」と返すと、椿は
「あーあー、もういい。帰れ。」とフォークを弄びながら桂を突き放して⸺そしてこう続けた。
「んで、また遊びに来いよな」
(怒涛の1日だったな…)
路地裏の血の匂い。
獲物を探して徘徊するかのような目つきの椿。
かと思えばエリック・クラプトンで大はしゃぎして、
そして⸺。
「死んだよ。イカれた客に刺し殺された」
あのときの瞳。深く深く、影を落とした碧眼。
(19歳って…言ってたよな…)
あの深淵には入り込んではいけない⸺本能がそう告げた夜。
「次は〜西日暮里〜西日暮里〜お出口は左側です」
鼻にかかったようなアナウンスにはっと我に返ると桂は定期を取り出し急いで出口付近まで歩いていった。
日曜日。
花金の夜からの疲れで正午を回っても桂はベッドから降りられずにいた。
とても簡素なワンルーム。新卒にはもってこいの物件。
(寝ても寝ても眠い…)
ただでさえ覚えることが山ほどあるのに加え、あんな衝撃的な出会いのあと⸺無理もない。
「お腹空いたな…」誰に言うともなく一人つぶやくと、のろのろと冷蔵庫へ向かう。
ヨーグルト、バナナ、牛乳、卵。それと、テーブルの上には食パン。
「買い物…行かないと…ろくなものがないな…」
ふと、あのとき島谷が作ったエッグベネディクトを思い出す。
桂は卵を手に取ると備え付けの安い一口コンロのあるキッチンへ向かい、フライパンのフチでココン!と割ってみた⸺が。
べしゃ。
卵は無残にもフライパンから5cmほど外れたところに落下した。
「ああ…もう…慣れないことするもんじゃないな…」
桂はティッシュで卵⸺否、正確には卵だったものを拭き取ると、パーカを羽織りコンビニへと出かけていった。
明けて、月曜日。ガラガラのあの光景が嘘のようにギュウギュウ詰めの山手線。ラッシュアワー。
(うぇ…これ、いつ慣れるんだろう…)
新社会人の洗礼を受けながら、電車は新橋へ。
人がアリのようにわらわらと出ていく。桂も人混みに流されるようにわたわたと小走りでオフィス街へと向かう。
(はぁ…出社するだけでこれって…)
そう思いながら周りを見渡すと、スーツに身を包んだ男たちが颯爽と歩いていく。スマートフォンでなにやら重要な話をしている者。あくびをしながら気だるそうにトボトボ歩いている者。或いは、喫煙スペース⸺それはかなり小規模で今や存在感は皆無に等しいが⸺で談笑する者。それぞれ一人一人が月曜の朝を彩っている。
と、そのときだった。
「川嶋〜!お前先に帰っただろー!」という声と共に尻に嫌な感触。
先輩だ。
「ちょっ…やめてくださいよ!!」
思わず桂が声を上げると先輩⸺武藤はカラカラと笑い、
「悪い悪い。まぁ、スキンシップってやつ。」と言い放った。
(これの…どこが…ッ)
桂は憤りを覚えたが、相手は先輩。掴みかかることもできずヘラヘラと流すしかない。
「あ、川嶋お前聞いたか?」と唐突に武藤が口を開く。
「今日さ、専務が来るんだって。やべーよ、緊張する…あの人すっげえ細かいから、お前も気をつけとけよ」
専務。
入社式以来見たことがない、と言うよりもすでにその顔は忘却の彼方だ。
「まぁ、よっぽどヘマしなきゃ大丈夫だと思うけど、あの人ホント細かいんだよ。しかも抜き打ちで急に来るんだよ。あーあ、やだなぁ…」
武藤の言葉に思わず唾をごくり、と飲む。
昼前。
皆専務が来ることを知ってか、そわそわと落ち着かない。
いつも賑やかな女性社員は静かに掃除をしているし、先輩たちも、上司も皆難しい顔をしている。
と、その時だった。
「入るよ」と、一言。
空気がピリつく。
皆手を止めて立ち上がり、頭を下げる。
桂もそれに倣って慌てて立ち上がり、頭を下げる。
「まぁ、直りたまえ。そのまま仕事は続けて。部長、ちょっといいかな」
声の主が上司を呼ぶ⸺どこかで聞いた、声。
(⸺!!!)
専務、と呼ばれた男、その男の左耳には大きなガーゼが。
そしてその顔は間違いなく、あのとき路地裏から転がり出てきた男のものだった。
「…あ…。」声にならない声が出る。
すると専務は振り向き桂を見やる。
「君は、新卒の…」と、専務が声をかけると桂は我に返り名刺を差し出しながら、
「はい!今年入社の川嶋桂と申します!」と深々と頭を下げた。
(なんで…この人が…あのときの…椿が耳を…食いちぎった…あの人なんだ…!?)
桂の首筋にヒヤリとした汗がしたたる。
専務は名刺を受け取ると上から下まで品定めするように桂を見たあと⸺一言。
「ふむ。たまには新卒の話も聞いてみたいな。一緒にランチはどうかね?」
その言葉には拒否権というものが、一切含まれていなかった。




