鰻
新橋から車で10分ほど。
有楽町。
『炭焼き うなぎ』のうの字が鰻のシルエットになっているその店の個室に桂と専務⸺勅使河原はいた。
「鰻は、好きかい?」勅使河原が口を開く。
ガッチリとした体躯に高級そうなスーツ。頭には少々白いものが目立つものの⸺それをオールバックにきっちりと固めている。そして、否応なしに目立つ、左耳のガーゼ。
中居が恭しく櫃に入った重箱を2つ、そして暖かな湯気が立ち上る吸い物を運んできて手際よく桂と勅使河原の前に並べると、
「勅使河原様、毎度ご引き立て有り難う存じます。どうぞごゆっくり」とだけ言って去って行った。
チラ、と桂が勅使河原を見やる。
その視線に気づいた勅使河原は桂に、
「どうした?遠慮することはないよ。なに、ラッキーなランチと思って食べなさい」と促す。
「ぁ…は、はい。いただきます。」櫃の蓋を外すと、そこには香ばしい炭の匂いとキラキラと光る濃厚なタレを纏ったふわふわのうなぎが2尾、並べられていた。
鼻孔をくすぐるその柔らかな香りに思わず生唾をのむ。
そっと箸をつけると、その身はふわ…と音もなく切れた。
(ここまで来たら…食べるしか…ないよな…)
桂は恐る恐るそれを口に運ぶ。
「⸺!!!!」
甘辛く、芳醇なタレに、ふわりとしたうなぎの滋味が絡み合う。
「うま…!」思わず桂の口からこぼれた言葉に、勅使河原はそうだろう、とでも言うように満面の笑みで大きく頷いた。
(でも…この人は…)
見間違えるはずもない。あのとき路地裏から転がり出てきた男⸺椿が耳を食いちぎった男。
(何で…椿は…あんなこと…)
桂が逡巡していると勅使河原が不意に口を開いた。
「花金の歓迎会は、どうだったかな?」
(⸺ッ!!)
あの夜のことを問われて思わず肩がびくり、と跳ねる。
桂は必死で言葉を探す。
「え…あの…すみません、俺…じゃない、私は下戸で…あまり先輩方を楽しませてやれずに…その…申し訳ありません…。」
やっとのことで桂が言葉を振り絞ると勅使河原は「そうか」と短く一言。
そして次の瞬間、矢のような一言が桂に放てられた。
「あの晩、君は何も見なかった。そうだね?」
(⸺ッ)
勅使河原の顔は微笑んではいる。が、その目は笑っていない。
桂が言い淀んでいると、また一言。
「あの晩、君は何も見なかった。そうだろう?私は何か難しいことを問うているかな?」
(見た…見てしまった…でも…)
「何も…見ていません…疲れて…帰宅して…そのまま寝ました…。」
桂がやっとのことで言葉を振り絞ると、勅使河原は
「それでいい。君はいい部下になりそうだ」と言い、鰻をかきこむと仲居を呼び、ブラックカードで支払いを済ませ桂にこう告げた。
「済まないが、ほかの部署も見て回らなくてはならなくてね。支払いは済んでいる。川嶋くん、君はゆっくりしていきたまえ。」と桂の肩をたたき、そして背中に手を回した。
「細いなぁ…しっかり食べて精をつけるんだよ」
触られた。背中に手を回されたときに脇腹、そしてその少し上にある乳首まで…。
「⸺!!!」
桂は飛び跳ねるように立ち上がると個室の障子を乱暴に開き、トイレまで駆け込んだ。
「げぇっ…おええっ…!ゲホッ…」
体内で栄養になりかけていた鰻が逆流してくる。
ただただ気持ち悪い。
「エッ…おえ…うぅ…」もう吐けるものが胃液しかなくなったところまで吐いて、桂は個室のドアに力なく背を預けた。
「椿…」
名を呼んだところで返事があるわけもない。
「…ッ椿…俺……!俺は…ッ」
目の前であの赤い髪が揺れた気がして手を伸ばしたが、虚しく空をかすめるだけ。
「椿…ごめん…。おれは…性根の腐った…君に合わす顔が…ない…」
目に涙をいっぱいに溜めて桂が呟いた、が。
それは吐瀉物まみれの便器に吸い込まれていった。




