Persona⸺父性とphilia
時は少し遡る。
米国、カリフォルニア州。
ビーチに面した道路を挟んだ瀟洒な戸建て。
勅使河原正隆は土曜のホリデーをビール片手に満喫していた。
庭にあつらえた小さなプールでは妻のミア(Mia)と娘の瀬里菜がはしゃぎながら戯れている。
勅使河原正隆、29歳。留学先の大学でミアと出会い、そのままゴールイン。金融マンとして多忙な毎日を送る彼の憩いのひととき。
「パーパ!それ!」瀬里菜が正隆に向かって水鉄砲を向ける。今年3歳になったばかりの愛しい愛娘。
「お?パパと勝負するか?」と正隆はシャツを脱ぎ、ジーンズのままプールへ入っていく。
幸せだ。どこからどう見ても幸せな家庭。
と、その時だった。
正隆のスマートフォンが着信を知らせる。
相手は母親の宗子。向こうはまだ深夜のはず。
「もしもし?母さん?」
正隆が訝しげに電話を取ると向こうの母親は酷くうろたえた様子で⸺なんとか平静を保ちながらこう言った。
「あの人が…お父さんが…大怪我をして…搬送されたの…。落ち着いて聞いて?お父さんは…睾丸破裂の重症…」
正隆の顔がみるみる青ざめていく。それを察したミアが「あなた…?」と声をかけるが、正隆は宗子の話をしっかりと聞き取るため、「シッ」と口に指を当てた。
「父さんが…睾丸破裂…?なんで…?どうして…?」
やっとのことで正隆が口を開くと、電話の向こうの宗子はこう告げた。
「お前にも言ってないことがあるの…一度帰国できないかしら…。何から話していいのか私も…わからない…。」
電話を切ると、ミアと瀬里菜が不思議そうな顔で見つめている。
正隆はふう、と大きく息を吐くと二人に告げた。
「お前たち、パパと日本に行こう。」
日本へ向かう機内。正隆とミアの間には重苦しい空気が漂っている。一方で娘の瀬里菜は初めての飛行機に大はしゃぎだが。
正隆はアテンダントを捕まえると、瀬里菜にオレンジジュースを買い与える。はしゃいでいた瀬里菜はぱっと目を輝かせると一気にそれを飲み干し⸺そしてウトウトと船を漕ぎ始めた。
それを横目でチラ、と確認したミアが正隆に話しかける。
「あなた、睾丸破裂って…お義父様…何かの事件に巻き込まれたの…?」
正隆は首を横に振って「わからない」とだけ答えるとまた前に向き直り神妙な顔つきになってしまった。
父との思い出が脳裏に蘇る。
IT黎明期に仕事に明け暮れていた父。それでもなるたけ自分と関わろうと⸺疲れた体をおして休みのたびにどこかしらへと連れ出してくれた父。
高校に上がる頃にはそれなりのポストにつき、女遊びもするようになり宗子を泣かせ⸺そんな家庭に嫌気がさしてカリフォルニアに留学したいと申し出たときに見せた笑顔はやはり、幼い頃に見た父の笑顔と同じだった。
「クソ…何が何だってんだ…。」
快晴の空を飛ぶ機内で正隆は独りごちると、ミアの頬にそっとキスをしてこう言った。
「ミア、お前は何も心配いらない。母さん、大げさなところがあるから。意外と軽症かもしれないし、な?」
ミアはその言葉を受け取り何が言おうとしたが⸺踏みとどまりこう返した。
「そうね…。お義父様、きっと…笑顔で迎えてくださるわよね…。」
同時刻、日本。
宗子は都内のとある大病院の手術室の前の長椅子で手を組んでただ俯いていた。金さえ積めばなんでも治す。そんな評判のある病院。成金趣味の大理石の床が、手術中の赤いランプを反射して⸺それがまるで鮮血であるかのような錯覚に陥る。
知っていた。自分の夫が何をしているかを。多忙に多忙を極める中、どんなふうに歪んで行ったのかを。知っていて⸺見ないふりをしていた。冷めきっていた夫婦仲だったが⸺それでも一度は愛した相手だ。
「あぁ…。」
言葉にならない言葉が唇からこぼれ落ちる。
と、手術中の灯りが消えて、中から大量の汗をかいた医師が出てきた。宗子が思わず立ち上がると医師は優しくそれを制し、一言。
「どうか座ったままで。そして落ち着いて聞いてください。」
一瞬の間を開けて医師は宗子にこう告げた。
「ご主人は命に別状はありません⸺が…非常に申し上げにくいのですが、今手の空いている者すべてを掻き集めて手術にあたりましたが…おそらく男性機能は…絶望的です。そしてなにより…」そこまで言うと医師は言い淀んで、大きく息を吐く。
「なにより…なんです?はっきり仰って…?」
宗子はまるで蚊の鳴くような声で問い詰める。
医師は目を伏せると、宗子にこう告げた。
「ご覧になる勇気があれば、どうぞ。」
衛生服に身を包み、宗子は手術室へと入る。
夫は眠っているようだ。顔の所々にできたアザが痛々しい。
「今は眠っておりますが…その…」と医師が言いかけたときだった。
勅使河原はパチリ、と目を開くと宗子を見て⸺口を大きく開いて嗤い出した。口の端から涎が垂れ落ちる。
「あなた…?」そう問いかけても勅使河原はただただケタケタと嗤うばかり。そして、ぴたりと嗤うのをやめると「赤…赤が僕を…殺しに来るよ…。怖いよ!怖い!!助けて母さん!!」とヒステリックに叫び出した。
「あなた…?ねえ、あなた!?私よ!!わからないの!?」宗子が近寄ろうとしたが医師はそれを手で制して一言。「非常に申し上げにくいのですが…どうやら精神的負荷が大きかったようで…搬送中もこのように…笑ったかと思えば叫び出して…」
宗子はそのまま床にペタリと座り込むと「あなた…」とだけ言って、そのまま気を失った。
「奥さん!?おい、担架だ!早く!!搬送患者には鎮静剤を!!急いで!!」
深夜の手術室。薄暗い廊下がただ静かにその喧騒をドア越しに映し出していた。




