Papilio
トクン…トクン…
ゆっくりと打つ心音が溶けて一つになってしまうのではないかとも思える錯覚。
椿と桂は抱き合ったまま、お互いにそれを感じていた。
最大に効かせたエアコンの冷風も届かない、何処か遠くへ行ってしまったような⸺そんな感覚。
(いつまでも…いつまでもこうしてたい…)
桂が目を閉じてそう思ったときだった。
コンコン。
ノックの音。
慌てて二人ともバッと身体を離す。
「お昼ご飯、できたけど…君ら…大丈夫そう…?」
ドアを細く開け少し意地悪そうに顔を覗かせる島谷に、椿はたちまち真っ赤になって⸺そしてクッションが飛んだ。
「おっと…!椿ちゃん、物を投げない。危ないでしょ」と言う島谷に椿は肩で息をしながら「潤…お前…わざとこのタイミングで来たな…?」と凄む。
そんな椿に島谷はカラカラと笑いながら事も無げに、
「ご明察。」と言うと自分の足元に落ちたクッションをひょい、と拾うとそのまま椿にパスをして
「ゆでダコお二人さん。ランチができてますよ。」とウインクしてみせた。
「今日はこれ。ほら、椿ちゃん。懐かしいでしょ」
そう言って大皿に盛られたていたものは、フィッシュ&チップス。カラリと揚がった白身魚の香りが香ばしく、重厚な衣はかぶりつけばザクリ、と音がしそうだ。そしてポテトもまた揚げたてで湯気が出ている。
「どうぞ召し上がれ…あれ…?」
島谷が二人を見やると二人とも赤面したまま俯いている。桂に至っては視点すら定まっていない。
「あちゃー…おじさん、ちょっとキミらのこと、からかい過ぎたかな…ごめんよ…。椿ちゃんも機嫌直して、ね?ほら、桂くんも。熱々が美味しいんだからさ。」
そう言われて桂はおずおずとフォークを手に取ると、白身魚のフライを切り分けて、口に運ぶ。サクリ、と小気味良い音を立てて衣が崩れ、淡白でありながらしっかりと下味のついた白身魚の塩味が口いっぱいに広がる。
「うわ…うま…!!島谷さん、これ…すごい美味いです…」桂は目を輝かせてまた一口、二口と食べ進めてゆく。
一方で椿はムスッとしたままフォークでポテトを弄んでいた。
「フィッシュ&チップスなんざ…ジャンクフードじゃねえか…おい、潤。アレ出せよ。」椿がぶっきらぼうにそう言うと島谷は苦笑しながら「はいはい、椿ちゃんはケチャップじゃだめだもんね?どうぞ」とマスタードを取り出してきた。
椿は半ばそれをひったくるように受け取るとブチュブチュと遠慮なく皿に出して、ポテトにたっぷりとつけて頬張る。
「フン。美味いけどデブの元だ。」
そう悪態をつきながらも食べ進める椿を見て桂は思わずクスリと笑う。
「桂…お前今笑ったな?ん?」と椿は今度は桂に凄む。
「ああもう…食事のときくらい落ち着いて。仲良く食べなさいよ…」島谷が呆れたように言うと椿はまたふい、と顔を反らしてしまった。
夕刻。
「あの…島谷さん…ごちそうさまでした。スーツまで頂いた上に…あんな美味しいごはんまで…」
桂がそう言うと島谷は優しく微笑み、「またおいで。椿ちゃんも待ちかねてたみたいだし、ね。」とひらひらと手を振った。
アパートに着いた桂は改めてスーツを取り出してみる。温かみがあり、それでいてどこか懐かしく優しい手触り。
「一生の宝物ができちゃったな…」
そう呟くと、家にあるハンガーで一番上等なものにそっと吊るして、ベッドに横になった。
フィッシュ&チップスで膨れた腹が否応なしに眠気を誘う。桂はあっという間に、眠りの底へ落ちていった。
深夜。
勅使河原は高級クラブPapilioに顔を出していた。
銀座の一等地にあるそれは、夜の世界でしのぎを削ってきた猛者たちの戦う場所であり⸺そして昼間の疲れを癒やす憩いの場所でもあった。
「勅使河原さん!もう!事前に連絡下さればいいのに…。」駆け寄ってきた女。ここのNo.1の嬢の愛海だ。
「いやいや、なに。今日は君と遊ぶために来たんじゃあないんだ。支配人、「奥」に通してくれるかな?」
勅使河原がそう言うと支配人は恭しくカードキーを取り出し、一言「こちらへ。」と勅使河原を導く。
大きく重厚な扉。カードキーを差し込むと、ゴゴ…という音と共に扉が開き、中には⸺
手枷足枷をつけられた男が一人、壁にはりつけられていた。むせ返るような汗の匂いがむわっと溢れだす。
「やぁ。遊びに来たよ」
勅使河原がそう言うと男はビクリ、と肩を震わせて絞り出すように「ぁ…」と声を発する。
その男は桂のように細く、中性的な面立ちで⸺体には無数の赤い痣が浮かび上がっていた。
「待っていただろう?退屈させたね。ほら、遊ぼうか」
と言うなり勅使河原は壁に掛けてある鞭を手に取り、ピシャリ!と男の腹に叩きつける。
「ぎっ…!」という鈍い悲鳴があがり、男の肌に新たな赤い痣が浮かび上がる。
「色気がないな。もっと可愛く鳴けるだろ、ほら!」また一打ち、容赦のない鞭が振り下ろされる。
「…あっ…う…」男が掠れた声を漏らすと勅使河原は満足そうに、「そうそう、可愛いね…今夜はたっぷりと可愛がってやろう…」と男の頬を舐め上げた。
「ああ…川嶋桂…あの子も直にここに…」
下卑た嗤いを浮かべ愉悦に浸る勅使河原の顔は最早人のそれではなく⸺剥き出しの獣そのものであった。




