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萌芽

「⸺川嶋、戻りました。遅くなりました」

15:30を少し過ぎたところ。桂は帰社した。

痛いほどに注がれる好奇の目。無理もない。新卒が、だ。専務に気に入られランチに誘われるなど⸺到底あり得ないことなのだから。

「おいおいおい~桂ちゃーん?お前、俺なんかより早く出世しちゃったりしてな?え?」武藤が桂に寄ってくると今朝したように尻をつかみあげる。

「…せんか…」

かすかな声。

「何?桂ちゃーん?聞こえないよー?」更におどける武藤を桂はキッと睨みつけると尻を掴んでいる手を払い除け、

「やめてくれませんか。触るのも、その桂ちゃんって言うのも。」

そうはっきりと低い声で言い放った。

初めての抵抗。初めての威嚇。160cmほどの小柄な桂が発するそれは、仔猫を守る母猫程度のものだったかもしれないが⸺。


その様子にオフィスはシン…と静まり返る。

西日が差しかかりブラインドの降りた重ったるい空気。観葉植物に差す日の明かりで埃がチラチラと舞うのが見える。

ほんの数秒の⸺静寂。それを破ったのは桂自身だった。

「俺、仕事戻ります。やんなきゃいけないことあるんで。あと今日は残業できないんで。」

デスクに向き直る桂に武藤は

「あ…その…すまん、川嶋…」そう言うのがやっとであった。


17時。

「部長すみません。ちょっと今日用事がありまして…残業できません。別日に尽力しますので、自分はここで失礼します」と桂が頭を下げる。

昼間の騒動を見ていた部長は

「あ、ああ。気をつけて。また明日も頼むよ」と労いの声をかけたが⸺すべて言い切る前に桂はオフィスを後にした。

帰宅のラッシュアワー。混み合う山手線。

西日暮里まであと少し。桂は人混みに揉まれながら窓の外をじっと見ていた。その時だった。スルリ、と腹に手が回され⸺上半身を無骨な指先が這う。

桂はその手をチラ、とみると胸ポケットからボールペンを取り出し、ためらいなく突きたてた。

小さく、「ギャッ」という悲鳴。何事かとあたりを見渡す乗客たち。

それらをすべて無視し、ただ桂は窓の外を眺めていた。


やっとのことで帰宅したのが19時過ぎ。

桂はまっすぐにベッドに倒れ込もうとして⸺止まり、風呂場へ直行した。

安アパートのユニットバス。カーテンを乱暴に閉めると桂は思い切りよく蛇口をひねり、シャワーを浴びる。

(消えてしまえ…気色の悪い…!!)

そう思いながら武藤に、電車内の見知らぬ男に、そして勅使河原に⸺触れられたところをゴシゴシと力任せにスポンジで洗い清めていく。

顔を洗おうとしてふと、右頬に手をやる。

昼間、微かに⸺けれども確かに触れたあの柔らかな感触。

紅潮した椿の顔を思い出し、思わず桂も赤面する。

「キス…だったよな…。ハハ…ファーストキス…椿に奪われちゃったな…。」


桂は風呂場から出るとベッドに潜り込み、スマートフォンで椿にメッセージを送る。

何度も入力しては消し、入力しては消し、幾度かの繰り返しの後に⸺

「無事に仕事終わって帰ってきたよ。今日はありがとう」とだけ送信するとそのまま眠りに着いた。


バー King'sCross。

夜の街がまた賑わい始める頃、島谷は馴染み客と他愛もない談笑をしながら手際よく酒や料理を提供していた。その合間に椿の夜食を作りながら⸺昼間のことを思い出す。

(桂くん…無事に帰れただろうか…。些か心配だけど)

だがその思いとは裏腹に客足は途絶えない。経営者としてはありがたいことだが。

22時を回り、ようやく人がまばらになり始めた頃。

客に「少し失礼します」と軽く会釈をして島谷は2階へ椿の夜食を運びに行った。

椿の部屋をノックする。返事はない。

「あれ…?寝ちゃったかな…?椿ちゃん、入るよー…」

そう言ってドアを開けた島谷の目に飛び込んできたのは⸺。


真っ暗な部屋の中、ブルーライトに照らされてニマニマと笑う椿だった。ぺたり、と、床に座り込みスマートフォンを操作している。

その姿をしばし見ていた島谷だったが⸺

「もう。目が悪くなるでしょ。」とパチンと部屋の電気をつけた。

バッと椿が島谷の方を見る。

「潤…いつからお前そこにいた…?」スマートフォンを後ろ手に隠しながら、でもその頬はほんのりと赤く染まっている。

「3分くらい前。椿ちゃんがスマホに夢中になってるときから。夜食持ってきたって、ノックもしたし声もかけたんだけど…?」

と、言った刹那。島谷めがけてクッションが飛んできた。

「わ…!と。なにするんだよ、椿ちゃん…夜食のサンドイッチ、落とすとこだったじゃないの…」

すんででクッションを躱した島谷に椿は、

「潤…見たな…?」と凄む。

「見たよ?」とあっさりと返す島谷に椿は立ち上がりツカツカと歩み寄ると、

「忘れろ。きれいさっぱり忘れろ。マジで。」

と言い放った。その顔は耳まで真っ赤で⸺思わず島谷は「ふっ…ふふ…」と声を漏らす。

「忘れろって、言ってんだろ…!!」椿の目に涙が滲む。ふるふると震える肩。

それを見ると島谷は緩めた顔をもとに戻し、「うん、何も見なかった。見なかったよ、椿ちゃん。サンドイッチ置いとくから、ちゃんと食べてね」と部屋を後にした。


「ちくしょう…あのムッツリオッサン…ネタにしたら殺す。絶対に殺す…」そう言いながらスマートフォンの画面に目を戻すと⸺そこには可愛らしいくまのスタンプでおやすみ、のメッセージが。

「…あぁ、おやすみ、桂。」

指先でそっとそのスタンプを撫でて、椿はゆっくりと画面にキスをした。


夜の街のネオンの光がその優しい眼差しを照らしていた。

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