Kiss/リストP
「すみません…俺…戻らなきゃ…」
午後3時。
ふらふらとした足取りで階段を降りてくる桂に椿が慌てて駆け寄る。
「おい…まだ顔色…よくねぇぞ…?無茶すんな…!」
その声に反応してキッチンにいた島谷も慌てて飛び出してくる。
「桂くん、無理はいけない。さっきよりはマシだけど…そんな君を帰すわけにはいかない」
(ああ…心配かけちゃったな…)
桂は無理に笑顔を作るとこう言った。
「大丈夫です。やらなきゃならない仕事、先輩たちに投げてきちゃったし…ほんとに…戻らないと…あ、Tシャツ…洗って返します…タオルも…。」
「…おいっ、待てったら!なぁ!仕事ってそんなに重要かよ!?」椿が声を上げる。
そんな二人のやり取りを見て、島谷は大きく一つ溜息をつくと、こう言い放った。
「わかった。行くといいよ。ただし本当に無理なら早退。いいね?」
その発言に椿が食ってかかる。
「潤、お前…!桂を殺す気かよ…!!」
180cm越えの体からは目には見えない怒りのオーラのようなものが湧き出ているようにすら感じられる。
そんな椿を制するように、島谷はゆっくりと言葉を発した。
「椿ちゃん。桂くんの意思、尊重してあげられないかな。僕も心配だよ。君と同じように。僕が親御さんなら帰さない。でもね。」ここまで言うと島谷はふぅ、と息をついて続けた。「桂くんには桂くんのプライドがある。違うかな。」
一瞬の間。
椿は何か言いかけたが⸺その言葉を飲み込んで、
「わかったよ…。無理、すんじゃねえぞ…?それと…連絡先…交換しておこう…何かあったらなんでも話せ…な?」そう言ってスマートフォンを取り出した。
「ぁ…そっか、俺たち…連絡先も交換してなかったんだっけ…」弱々しく笑う桂をみて椿は沈痛な面持ちで桂を見る。
「それじゃ…すみませんでした、島谷さん。椿も…ありがとう…」
桂がそう言って去ろうとしたときだった。
ぐい、と右手を引かれた。何事かと思って振り向くと、右の頬に柔らかな感触。
「…え…?」
ふわ、と鳥の羽のように軽く、でも確かなしっとりとした感触。思わず右の頬を触り、椿を見上げると⸺そこには真っ赤な顔をした椿が口元に手の甲を当てて立っていた。
「あー…その、なんだ。おまじないみたいなもんだ。昔ママがよく…やってくれた…。深い意味はねぇよ…。」
一瞬の間。
桂はぽかんとしたまま、ほぼ無意識に口を開く。
「椿…今…キス…したの…?」
「⸺ッだから!!深い意味はねえって言ってんだろ!!ほらっ、戻るならとっとと戻れよ!」
ぐいぐいと扉まで押され、思わずよろけそうになる。
が。踏み止まって桂は微笑みながら椿にこう言った。
「ありがとう…。なんか、パワーもらった気がする。戻るね。また。」
「あーららら…椿ちゃんたら大胆だこと。」
桂が去った店内。
椿はまだ頬を紅潮させながら島谷を睨みつける。
「っせぇよ…。Hang in there、ってやつだよ…あーもう!ジロジロ見んな!!このムッツリオッサン!!」
そんな椿を面白そうに見ていた島谷だったが、ふと表情を変え、椿にこう言った。
「椿ちゃん。桂くんのあれは…おそらくリストPだ。」
リストP。その言葉に椿もハッとして⸺そして虚空を睨みつけた。
「Pの仕業かよ…クソが…ぶっ殺してやる…!」
その頃。
有楽町から新橋へ戻る車の中。勅使河原は満足そうに嗤っていた。
「ご機嫌ですね。」専属ドライバーの古屋がそう声をかけると勅使河原はねっとりと張り付くような微笑みを浮かべて⸺うっとりとした目でこう言った。
「ああ。新卒の中に『とても使えそうな』子がいてね。楽しみだよ、今後が…とても…とてもね…。」
古屋は目を伏せると一言だけ「あまりご無理はなさいませんように。その…お怪我もされたばかりですし…」と言って前を向き直した。
(この人は…また玩具を手に入れてしまった…しかし…それを諌めるだけの力が私にはない…誰だか知らないが…済まない…)
古屋の悲痛な祈りにも似た謝罪は、もう青々と葉を茂らせた桜並木に吸い込まれていった。




