38話 焦り
黒い門を前にすると、さすがに喉が乾いた。
都内近郊の管理下ダンジョン。
新宿ほど騒がれてはいないが、それでも門の前には警備と職員がいて、物々しい空気が漂っている。
柳葉剣は支給された防具の重さを確かめるみたいに肩を回した。
横では青桐茜が、無言で門を見上げている。
「今さらだけど、ほんとに入るんだな」
わざと軽く言ったつもりだった。
けれど、自分の声が少しだけ硬いのは分かった。
茜は門から目を離さないまま答える。
「ここまで来てやめるわけにはいかないでしょ」
強い言い方だった。
でも、その指先は少しだけ強く握られている。
怖いのだ。
俺も同じだった。
事前講習で散々聞かされた。
浅い階層でも油断すれば死ぬ。
魔物は映像で見るより速くて、重くて、生々しい。
それでも、行くしかない。
新はもう、あの中でずっと先へ進んでる。
こっちが足を止めてる間にも、たぶん勝手に無茶をして、勝手に生き延びて、勝手に強くなってる。
「置いてかれてたまるかよ」
小さく呟くと、茜がちらっとこっちを見た。
「何?」
「独り言」
「最近それ多い」
うるせえ、と言い返そうとしたところで、前方から声が飛んだ。
「候補者二名、前へ」
職員の合図で、俺たちは門へ近づく。
同行するのは政府職員が二人と、先行して何度か潜っている探索者が一人。
いきなり完全放置ってわけじゃないらしい。
少しだけ安心した。
少しだけだ。
「本日の目的は一階層の安全行動確認、およびステータス解放の補助です」
事務的な声が続く。
「無理な前進は禁止。単独行動も禁止。魔物を確認しても、指示なしに突っ込まないこと」
その説明を聞きながら、剣は門の黒さを見つめた。真っ暗闇で先がどうなっているか全く分からない。
「行きます」
その一言で、全員が門をくぐった。
冷たい膜を抜ける。
空気が変わる。
湿った石の匂い。
外より少し低い温度。
ダンジョンだ。
動画で何度も見たはずなのに、実物は全然違った。
狭い通路も、濡れた岩も、足音の反響も、全部想像していたよりもずっと現実だった。
先導の探索者が、手で合図する。
止まれ。
しゃがめ。
静かに。
少し先。
通路の角を曲がったところに、小さな影がいた。
緑の肌。
曲がった背。
手には石。
ゴブリン。
動画の中で何百回も見た魔物。
でも、目の前にいるとまるで違った。
小さいのに、明確に“人を殺せる側”の気配を持っている。
先導の探索者が小声で言う。
「一体だ。やるぞ」
「候補者は後ろから援護。タイミングを合わせろ」
援護ったって、何をどうすればいいんだ、と思う間もなかった。
探索者が一気に距離を詰める。
ゴブリンが反応して石を振り上げる。
そこへ職員の一人が警棒で手を打ち、体勢が崩れた。
「今!」
声が飛ぶ。
気づいた時には、体が動いていた。
剣は伸縮警棒を両手で握り、ゴブリンの脇腹めがけて叩きつける。
思ったより硬い。
重い。
でも、確かに当たった。
ゴブリンがよろめく。
隣から茜が踏み込んだ。
警棒が、ためらいなくゴブリンの膝へ叩き込まれる。
骨の嫌な音。
ゴブリンが崩れる。
探索者がとどめを刺した。
静かになった。
剣は自分の呼吸が荒くなっていることに、その時ようやく気づいた。
手汗がひどい。
心臓がうるさい。
たった一体。
なのに、こんなに余裕がない。
「これが戦うってことかよ……」
思わず漏れた声は、情けないくらい乾いていた。
その瞬間だった。
青白い板が、剣の視界へ浮かび上がる。
「……っ!?」
幻覚かと思った。
けれど、横で茜も同じ顔をしている。
【条件を達成しました】
【ステータスが解放されます】
言葉を読むより先に表示が切り替わる。
【ステータス】
名前:柳葉 剣 Lv1
種族:人間
HP:18/18
MP:12/12
攻撃力:9
防御力:8
俊敏:10
魔力:5
「……出た」
やっと、言葉になった。
ニュースでも動画でも散々見たもの。
探索者の証みたいに言われていたもの。
それが、今、自分の目の前にある。
さらに続けて文字が並ぶ。
【スキルを獲得しました】
【剣術Lv1】
【体術Lv1】
【直感Lv1】
剣はしばらく、無言でそれを見つめた。
派手なスキルはない。
でも、自分には妙にしっくりくる気がした。
横では茜も自分の板を食い入るように見ている。
「茜、何出た」
「……そう急かさないでよ」
そう言いながらも、声が少し上ずっていた。
興奮しているのが分かる。
「私は、治癒と水魔法」
剣は目を見開いた。
「当たりじゃね?」
「まだ分かんないでしょ」
「でも……うん、悪くないかも」
その言い方の最後だけ、少し嬉しそうだった。
治癒。
水魔法。
確かに、当たりだ。
少なくとも、ダンジョンで腐る気はしない。
探索者がこちらを振り返る。
「ステータス解放を確認。いい顔してるな。
だが、浮かれるのは後だ。二体目が来るぞ」
その言葉で、すぐに現実へ引き戻された。
通路の奥。
今度は二体。
ゴブリンが、こっちへ気づいている。
剣は警棒を握り直した。
さっきより、少しだけ体が軽い気がする。
視界も冴えている。
ステータスの補正か。
それとも、覚悟が少し決まっただけか。
どっちでもよかった。
「行くわよ」
茜が短く言う。
「言われなくても」
一体の石投げを剣が引きつける。
もう一体に茜が水の塊をぶつけ、足を滑らせる。
探索者が崩したところへ、剣が横から警棒を叩き込む。
剣術なんてスキル名だったくせに、今持ってるのは警棒だ。
でも、不思議と体が迷わなかった。
踏み込み。
体重移動。
振り抜き方。
頭で考える前に、少しだけ分かる。
ゴブリンを倒した直後、剣は荒い息を吐いた。
やれる。
このダンジョンで俺たちの力は通用する。
それが、少しだけ救いだった。
潜行はそこで打ち切りになった。
初回としては十分だと判断されたらしい。
門の外へ戻ると、昼の光がやけに明るく感じた。
さっきまでの湿った空気が嘘みたいだった。
職員たちが記録を取り、簡単な確認をしている間、剣と茜は少し離れた場所で座り込んだ。
茜が先に口を開く。
「ずっと、命を落とすリスクがあるっていのは、思ってたよりずっと怖いわね」
剣は頷いた。
「俺も動画の中だともっと、こう……分かった気になってたわ」
「分かる」
少し黙る。
それから、剣は空を見上げた。
新は、あの新宿でこれをずっとやってる。
一人で。
いつ倒されてしまってもおかしくない、そのことをより強く今回のダンジョンで実感した。
だからこそ急がないといけない。
「もっと潜れるようにならないとな」
茜が小さく笑う。
「やっとスタート地点って感じね」
「新が勝手に先行きすぎて、背中が見えないけどな」
「それはそう」
そう言いながら、茜も門の方を見た。
その目には、さっきまでより少しだけ強い光がある。
怖さは消えていない。
でも、それだけじゃない。
その時、職員がこちらへ近づいてきた。
「柳葉さん、青桐さん
次回の候補日程ですが、もう一段深い管理区域での訓練参加が可能です」
剣は顔を上げる。
「早くないですか」
「希望者が少ないので。
もちろん危険度は上がりますが、その分、成長も早い」
そう言って渡された紙には、次回の集合時間と場所が書かれていた。
剣はそれを見つめ、それから茜を見る。
茜も同じ紙を覗き込んで、少しだけ息を吐いた。
「どうする?」
聞くまでもなかった。
剣は紙を握り直す。
「行くに決まってる」
置いていかれたくなかった。
新にも。
焦って、行動することが、ダンジョンにおいて、どれだけ危険なことなのかを、俺たちはまだ理解していなかった。
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