30話 リスクとリターン
スマホが震えたのは、大学の研究室で朝食代わりの栄養バーを齧っていた時だった。
最初は、よくある災害速報だと思った。
だが、通知を開いた瞬間、岩神海の手が止まる。
『都内各所にて、正体不明の巨大構造物が出現』
海は無意識に立ち上がっていた。
「……なにこれ」
呟いた声は、驚きより先に興奮を滲ませていた。
すぐさま情報をSNSで調べる。
「新宿……」
近い。
海は唇を噛んだ。
今行かなければ、もう入れなくなる。
そう思った瞬間には、もう鞄を掴んでいた。
新宿につくと逃げ惑う群衆。
警察車両。
そして、まだ統制の取り切れていない混乱。
今なら入れる。
黒い門を前にした時、私は少しも躊躇わなかった。
怖くなかったわけじゃない。
むしろ、怖かった。あれが人の世界のものではないと、本能のもっと手前のところで理解していたからだ。
それでも、今入らなければ駄目だと思った。
ダンジョン発生直後の情報は、今しか取れない。
封鎖が始まり、人が入り、調査が整えば整うほど、最初の形は失われる。
安全に調べる。
そんなものを待っていたら、研究としては終わりだ。
だから私は門をくぐった。
冷たい膜を抜けた瞬間、空気が変わった。
湿り気を帯びた岩の匂い。妙に静かな暗闇。音が吸われるような通路。
地上とは切り離された別の場所に来たのだと、肌が理解する。
「……最悪」
思わずそう呟いたのは、環境が悪いからじゃない。
最高すぎたからだ。
壁に触れる。
表面を爪で軽く削る。
落ちた粒を小袋へ入れる。
空気を吸って、吐いて、温度と湿度を鞄に入っていた紙にメモする。
光源の届き方。反響。通路の幅。全部が新しい。
夢中になって進んだ。
もちろん、無防備だったわけじゃない。
私は戦闘職じゃない。だからこそ、入る前にできるだけの準備はしてきた。
耐切創のジャケット。
保護眼鏡。
最低限の水と食料。
そして、計測器具と採取道具。
それに、もしものためのサバイバルナイフ。
問題は、それでも足りない可能性の方が高いことだった。
通路の先で最初に動くものを見た時、私は反射的に壁へ張りついた。
小さい。
緑色の肌。
曲がった背。
手には石。
ゴブリン。
報道映像で何度も見たはずなのに、実物は軽く認識を裏切った。
画面越しより、ずっと生々しい。ずっと獣臭い。ずっと殺す気でこちらの世界に立っている。
あれを、私が?
喉がひくりと震える。
でも、ここで逃げたら、私は何をしに来たのか分からない。
私は静かにケースを開いた。
中から細い発火筒と、試薬の入った小瓶を取り出す。
それから腰のナイフを抜いた。
手順は頭に入っている。何度も試した。
人間相手じゃない。的は小さくて動くが、それでもやるしかない。
ゴブリンがこちらに気づいた。
黄色い目が細まる。
喉の奥で濁った声を鳴らしながら、こちらへ歩いてくる。
近い。
まだ。
もう少し。
私は発火筒を床へ打ちつけた。
火花。眩しい光。
ゴブリンの視線がぶれる。
その一瞬に、小瓶を投げた。
命中。
次の瞬間、小さな破裂音と一緒に火花が散る。
ゴブリンが悲鳴を上げた。
顔を押さえ、よろめく。
今だ。
私はナイフを握り直し、ほとんど体当たりみたいに踏み込んだ。
狙ったのは喉元だったが、実際に刺さったのは肩口に近いところだった。
浅い。
ゴブリンが暴れる。
石を振り回す。
怖い。近い。臭い。熱い。
それでも、抜かなかった。
両手で柄を押し込み、無我夢中でもう一度ねじる。
ゴブリンの悲鳴が濁る。
体勢が崩れる。
私は息を詰めたままナイフを引き抜き、今度こそ首筋めがけて振るった。
当たった。
ゴブリンが崩れる。
石を取り落とし、岩床へ倒れ伏した。
私は息を切らしながら、その場に立ち尽くした。
手が震えている。
呼吸が浅い。
耳の奥で心臓がうるさい。
やった。
倒した。
その実感が、じわじわ来た瞬間だった。
青白い板が、何の前触れもなく視界へ浮かび上がった。
「……は?」
幻覚かと思った。
だが、違う。文字がはっきり読める。
【条件を達成しました】
【ステータスが解放されます】
言葉を追う暇もなく、次々に表示が切り替わる。
【ステータス】
名前:岩神 海
種族:人間
HP:16/16
MP:30/30
攻撃力:7
防御力:6
俊敏:6
魔力:15
さらに、その下へ別の文字が並んだ。
【スキルを獲得しました】
【錬金Lv1】
【解析Lv1】
【分解Lv1】
「……っ」
意味を理解した瞬間、背筋が震えた。
スキル。
本当にある。
報道や動画で騒がれていたものが、今、目の前にある。
私は夢中で文字へ意識を向けた。
【スキル『錬金Lv1』】
【素材と魔力を用いて、新たな物を作り出す】
【スキル『解析Lv1』】
【対象の性質や特徴を読み取る】
【スキル『分解Lv1』】
【対象を構成する要素へ分解する】
錬金。解析。分解。
あまりにも、出来すぎていた。
笑いそうになる。
いや、実際に少し笑っていたかもしれない。
戦うための力じゃない。
調べるための力。
作るための力。
理解するための力。
まるで、最初から私のために用意されていたみたいじゃない。
私は倒れたゴブリンと、自分のケースの中身を見た。
試してみたい。
いや、試さない理由がない。
ゴブリンの残骸から回収できそうな素材。
持ち込んだ最低限の水。
火に近い反応を示す試薬。
震える手のまま、私は意識を集中させた。
淡い光。
素材が崩れ、混ざり、形を変える。
生理的嫌悪感と知的好奇心が同時に押し寄せる。
やがて、掌の上に残ったのは、乾燥した黒っぽい塊だった。
そこで私は悟った。失敗した、
その直後だった。
青白い板が、また視界へ浮かび上がる。
【称号を獲得しました】
【開発王】
私は目を見開く。
【称号『開発王』】
【取得条件:最も錬金を多く行っている者へ与えられる】
【特殊効果:錬金が大成功しやすくなる】
【MP+20】
【スキル『合成レシピ』を獲得しました】
「……最も?」
思わず口に出る。
私が、世界で初めて錬金をした、ということなのか。
それとも、この一回目の時点でそう判定されたのか。
分からない。分からないけれど、興味深い。
【スキル『合成レシピ』】
【所持素材から作成可能な物を導き出す】
私は掌の上の黒い塊と、倒れたゴブリンを見比べた。
なるほど。
今のは偶然じゃなかったらしい。
私は改めて青白い板へ意識を向けた。
【合成レシピを発動しました】
表示が切り替わる。
作成可能:携帯食料
その瞬間、ぞくりとした。
「本当に……?」
震える手のまま、私は錬金を発動した。
淡い光。
素材が崩れ、混ざり、形を変える。
生理的嫌悪感と知的好奇心が同時に押し寄せる。
やがて、掌の上に残ったのは、乾燥した黒っぽい塊だった。
見た目は最悪。
匂いも微妙。
でも、青白い板はそれを“食料”と断じている。
私はしばらくそれを見つめ、それから小さく息を吐き気合をこめた。
一口齧る。
「……美味しくはないわね。でも、食べられないこともないわ」
食料を現地調達できる。
素材を加工できる。
調べられる。
分解できる。
つまり、潜れる。
さっきまでの私は、危険を承知で飛び込んだ無謀な研究者だった。
けれど今は違う。
ちゃんと、生き延びながら進める可能性が見えた。
私は立ち上がり、倒れたゴブリンを見下ろした。
さっきまで怖かったはずの死骸が、今は別の意味を持って見える。
危険。
素材。
情報。
可能性。
全部だ。
ケースを閉じる。
青白い板をもう一度見て、それから通路の奥へ顔を向けた。
封鎖される前に入ってよかった。
本気でそう思った。
ここには、まだ誰も知らないものが山ほどある。
だったら、行くしかない。
私はゴブリンから作り出した非常食をケースへ押し込み、静かに1階層の奥へ歩き出した。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
すこしでも面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価をしていただけるととても励みになります。
感想なんでも大歓迎です。誤字脱字、矛盾などでも、どしどし送ってください!




