2話 憑りつく
黒い獣へ飛び込んだ瞬間、霊山は自分の体が重くなったのを感じた。
いや、重いというより、中に入ろうとする自分を拒んでいるようだ。
ただ、高い所から水に飛び込んだ時のような奇妙な抵抗を乗り越えると――次の瞬間、視界がひっくり返った。
熱い。
臭い。
うるさい。
霊山の中へ、濁った感覚が一気に流れ込んできた。
血の匂い。獲物を追う興奮。肉を裂きたい衝動。目の前で腰を抜かしている人間を噛み砕こうとする、剥き出しの殺意。
「っ――!」
叫んだつもりでも、やはり声は出ない。
代わりに、黒い獣の体が大きくぶれた。
憑りついたのだ、と霊山は直感した。
自分の意思が、獣の動きへわずかに干渉している。
完全に操れるわけではない。主導権の大半はまだ向こうにある。だが、ほんの少しだけ爪の向きが逸れた。飛びかかろうとしていた黒い獣は、スーツ姿の男を仕留め損ね、アスファルトを大きく削りながら横へ流れる。
男が悲鳴を上げながら這って逃げた。
助かった。
その事実に安堵した瞬間、黒い獣の中で殺意が爆ぜた。異物への拒絶だ。獣の意識が、体内に入り込んだ霊山を噛み潰そうとするみたいに荒れ狂う。
頭の奥が痛い。
吐き気に似た不快感が、霊体のはずの全身を駆け巡る。
長くは持たない。
直感的にそうわかった。
とにかく情報が欲しい俺はステータスのスキルを確認した。
【スキル『憑りつく』】
【相手の精神に入り込み行動に干渉する。MP消費は憑りつく相手の強さに依存】
【干渉率:低】
【MP:12→11】
見えた文字に、霊山は歯噛みした。
干渉率、低。
つまり今の自分では、完全支配なんてできないということだ。
だが、逆に言えば、少しは動かせる。
黒い獣がもう一度体勢を立て直し、逃げた男へ首を向ける。
霊山は必死で抵抗した。右前脚に力を込めようとする獣の動きへ、逆向きの意志をねじ込む。
止まれ。
逸れろ。
こっちじゃない。
黒い獣の体が震えた。ぎちぎちと関節が軋むような嫌な感覚が伝わってくる。獣自身も、自分の体が思い通りに動かないことに苛立っていた。
次の瞬間、霊山は黒い獣の視界の奥で、いや光景を見た。
残り2体の黒い獣が標的を探していた。
そう理解した瞬間、霊山の中で焦りが跳ね上がった。
まずい。
ここでこの一匹に手間取っている場合じゃない。
だが、どうする。
憑りつきは使えている。だが干渉は弱い。このままでは時間稼ぎが精一杯だ。
そのとき、視界の中央でもう一つの文字が脈打った。
闇魔法。
霊山は反射的に意識をそこへ向ける。
すると、黒い獣の体の内側から、冷たいものが滲み出す感覚があった。
ぞわり、と。
黒い霧のようなものが、獣の視界の端から広がっていく。霊山自身の霊体から漏れた闇が、獣の視界を攪乱しているのだと、本能的に理解した。
いけるかもしれない。
霊山はさらに意識を集中させた。
見えなくなれ。
動きを鈍らせろ。
少しでいい、止まれ。
黒い獣が低く唸った。視界がぶれ、足取りが乱れる。爪が空を切り、狙いが定まらない。
【闇魔法を発動しました】
【MP:11→8】
数字が減ったのを見て、霊山は一瞬だけ冷静になる。
闇魔法はMPを3も使ってしまう。なら無駄撃ちはできない。
黒い獣は苛立ったように頭を振り、ついには獲物を追うよりも、自分の中にいる異物を振り払うことを優先し始めた。全身を暴れさせ、壁へ体当たりするように駅前の案内板へ突っ込む。
鈍い衝突音。
金属がひしゃげ、黒い獣の体が大きく揺れる。
その瞬間、俺の視界の端に文字が浮かんだ。
【HP:10/10 → 9/10】
……は?
思わず思考が止まった。
今、減ったのは黒い獣のHPじゃない。
俺のHPだ。
看板にぶつかったのは、この黒い獣の体のはずだ。
なのに、俺のHPが減っている。
もしかして――憑りついている間は、乗り移った相手が受けたダメージの一部を、俺も食らうのか?
だとしたら、無茶はできない。
霊山はすぐにステータスを見た。
【ステータス】
名前:霊山新Lv01/20
種族:ゴースト
HP:9/10
MP:8/12
攻撃力:0
防御力:1
俊敏:9
魔力:8
スキル:霊体/憑りつくLv1/闇魔法Lv1/物理攻撃無効/進化ガイド
称号:ファーストデッド
黒い獣が再び人間へ向き直る。
その先には、まだ逃げ遅れた人たちがいた。泣き叫ぶ声、へたり込む老人、動けずに震えている男。一匹止めても終わらない。
けれど、だからといって見ているわけにはいかなかった。
この状況を打破するために俺は頭をフル回転で動かす。
霊山は、息を吸うこともできない体で、それでも覚悟を決めた。
やるしかない。
出来ることすべてしてでも、ここにいる全員を生きて帰してやる。
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