漆
振り向くと、そこにいたのは糸原結の父、糸原綜司だった。
「おや、糸原さんじゃない。息災なようで何よりですわ」
腕を組んだ薑子が、薄笑いを綺麗に取り繕って、平坦な口調で言う。柊が薑子の斜め後ろまで足をすっと引いて移動し、糸原氏に目礼した。
「ははっ、いやどうも。そちらもお元気そうで」
その長身に、白いカッターシャツと鶯茶のチェックのベストスーツを着こなした、茶髪ではあるが「ロマンスグレー」という言葉が似合いそうな御仁だ。しかしその目には、少しの敵愾心が浮かんでいる。
「どうしてこちらに?」
「こちらに購買で売るための食品を卸しているんですがね、今日はそちらの打ち合わせに」
先程も校長と話してきたところですと、糸原氏が首から下げた入校許可証をひらりと振って見せ、にこやかに話す。
「息子がとうとう担任を受け持つことになったと聞きまして、様子を見に来たんですが……」
薄い笑いを顔に張りつけたまま、頭ひとつぶん低い位置にある柊の顔を睥睨した。
糸原氏の視線を受けた本人は、彼と目を合わせるために顔を上げることもなく、ただ顔を前に向けてじっと睫を伏せている。
全く動じていない柊の様子に、気にくわないというふうに糸原氏が片眉をぴくりと動かした。
「……まさか、あなたのいるクラスだとは。四辻からも息子からも、そんな連絡は受けていませんでしたのでね、今驚いていますよ」
先ほどまでうっすらと笑みを浮かべたまま糸原氏の話を大人しく聞いていた薑子が、にぃ、とその深紅の唇をつり上げる。
それを視界のはしでとらえた柊は、ああこれは叔母の悪い癖が始まったなと、聞きとがめられない程度に短くため息をついた。
「あなたにとってはそんなに大事なことを伝えられなかっただなんて、息子さんに嫌われているんじゃありません? 本家の操作があったのかどうなのか私たちは知りませんけれど、どちらにせよ一応は本家の長男がいるんですから、その名前を見つけたら普通は報告しますものねえ。それともこの子の名前が息子さんに見えなかったとかなのかしら」
こういうときの薑子は、表面上は思案げな素振りをしてはいるが、本当に生き生きとして楽しそうである。ともすれば女子会で友達と楽しくお喋りする女子大生のようにも見えてしまうが、その場の雰囲気は柊からすれば最悪だった。柊には、ふたりの頭上に渦巻く暗雲が見える気がする。
何故こうも敵を作るような言い方をするのか。
理由は簡単だ。薑子は、結はそうでもなかったが、糸原綜司がとにかく嫌いなのである。
彼女は、「オトモダチ」にはしごく友好的に接するし相手に気を遣いもするが、嫌いかつ役に立たないと断じた相手はとことんまで無視するか煽るかしないと気が済まない性格だった。
「まあ理由はどうであれ、父子がそんな関係じゃあ、これからの糸原が心配ですわねえ?」
柊は目だけを動かして、話題にのぼっている当の息子を探す。その姿は、教卓の辺りにあった。
詳しい内容はここからでは聞こえないが、糸原は数人の生徒たちに話しかけられ、少し困ったような表情を浮かべながらも楽しそうに生徒たちと会話している。こちらにはまだ気づいていないようだった。
柊はそれを確認して、密かにほっと胸を撫で下ろす。
こんなぎすぎすとした自分の父と叔母の会話は、きっと彼も聞きたくはないだろう。それに、薑子にはそんな意図はないが、彼女の言い方では彼のことも貶しているように聞こえてしまうかもしれない。糸原がこれを耳にして誤解したならば、柊の方が申し訳なく思って萎縮してしまうところだった。
「はは、ご心配なく。うちはそちらとは違って関係は良好ですから」
「ふふ、そうであることを願ってますわ。お困りごとがあれば、何でも言ってくださいね。姉の家族だもの、私にできることならば協力しますよ」
「ははは、それはどうも」
薑子がにこやかに言い、糸原氏も笑って「息子に顔を見せてくるので、ここらで失礼しますよ」と会釈する。
終始笑顔を浮かべたままのふたりだったが、別れ際、擦れ違ったときには、糸原氏はおそろしいほどの真顔に変わっていた。対して薑子はスッキリしたような顔をしている。不満を皮肉として発散して気が済んだらしい。
糸原氏が横を通りすぎた直後、やっと終わったと肩の力を抜いた柊の耳に、剣呑な声音が届いた。
──無能と鬼子風情が、調子に乗るなよ──
ちらりと横を見る。腕時計で時間を確認している薑子には聞こえていないようだった。
嫌がらせだろうか。
柊だけにわざわざ声を伝えた理由は柊にはわからなかったが、もし嫌がらせなのだとしたらずいぶん幼稚なものだと思う。
叔母も俺も、今さらこの程度で傷つくようなやわな精神はしていない。
柊は鼻をならした。
「──柊! お前の番だぞ!」
糸原氏と薑子が静かな気の逆撫で合いを繰り広げている間に、もう柊まで提出の列が進んでいたようだ。諒が柊に向かって軽く手を振っている。
「あ、ごめん。すぐ行く」
柊は慌ててデイパックと封筒から出しておいた書類の束を引っ掴む。提出されたものが並んでいる、諒のいる机まで、ときどき荷物や身体を机にぶつけながら急いで向かった。
こういうときは、整然と並んだ机が煩わしく思える。直線距離で進みたいと考えてしまうのは、柊の気が短いからなのだろうか。
薑子が柊の後ろから、「じゃあ私は若松くんのお母さんと先に廊下に出とくから」と声を投げてくる。柊は無言で手を振って答えた。
「もー、遅い~」
「ごめんごめん」
「おれの後ろがいないから良かったけどさあー」
「ごめんって」
ひとつひとつ向きを確認しながら、出来るだけ手早く書類を重ねていく。
最後の紙を置き終わり、諒が来るのを少しだけ待ってから、柊は彼と一緒に教室を出た。階段の前で立ち話をしている薑子たちのところまで、小走りに駆け寄る。
通り際にちらと教室の外から扉の窓を覗くと、糸原父子が互いにしかめっ面をしながら会話しているのが見えた。
叔母が言った通り、仲が悪いようにも思える。父親の方にはあんなに嫌悪されているにも関わらず、息子には嫌がらせなどを柊がされたことがないのも、それに関係しているのかもしれない。
「さっき、あのおじさんと何話してたの?」
「おじさんって、茶色いスーツの人のことか」
「うん」
諒の母親と薑子と合流し、連れだって階段をおりていると、隣の諒が柊に訪ねてきた。
答えにくい質問だな……と、柊は僅かに面倒に思いながらも、小さく口を開く。
「なにって……伯父だったから、息子さんにはこれからお世話になりますって挨拶を、叔母がしてただけ。俺はなにも」
「あ、じゃああの人、糸原先生の父親なのか。どうりでどっかで見た顔だと思った」
諒は少しおどけてそう言った。
糸原先生も大変だね、父親が来るなんて。緊張してたかな。
さあ。どうだろうな。
曖昧な会話をしているうちに下足箱に到着し、諒と彼の母親はこの後用事があるからと、柊たちとは反対の門へと去っていった。
「また明日ねー」
「ああ。また明日。気をつけて」
「どーもね~」
屋根の下から中庭へ足を進めると、丁度真上まで昇った太陽が、ぴかぴかと眩しいくらいに光っていた。
柊は額に手をやって陰を作る。今日1日ほとんど表情を変えなかった柊でも、このときばかりは眉根を寄せて顔をしかめた。
流石に眩しさには勝てない。
指の隙間から、薄い雲が幾つか浮いた、春らしい澄んだ薄い蒼の空が見えた。
「さ、帰るわよ。さっさと帰って届いてる教科書片付けちゃいなさい。ずっと置いておかれちゃ邪魔なのよ」
薑子も眉をぎゅっと寄せてそう言うと、近くのパーキングに向かって歩き始めた。柊はその背中を追いかける。
日陰は寒いが、日の光のなかジャケットを来たまま歩いていると、流石に汗ばんでくるくらいの陽気だ。
これからもっと暑くなって、春がいなくなってしまうのかと思うと、柊は少しうんざりとした。
「疲れた?」
「……はい。とても」
唐突に前を歩く薑子からそう訊ねられ、暫時考えてから、疲れたと答えた。
「そう」
そうそっけなく返されて、柊はよっぽど「主に叔母と伯父の『ご挨拶』のせいですけどね」と付け加えてやろうかとも思ったが、機嫌を損ねたら車に乗せてもらえない可能性に思い至って、言葉を飲み込んだ。
地面を見下ろしてみると、歩道にたくさんの花弁が散っている。落ちて踏まれて茶色くなって。それでも淡い色に彩られた道は、柊の目に美しく映った。
河沿いの桜並木を見上げる。葉桜とはいえ、河に反射した光がそのシルエットを掘り出して、なかなかに趣深い眺めだ。
「…………」
ふたりとも、車のもとにたどり着くまで、ひとことも話さなかった。けれど、それは居心地の悪い沈黙ではなく。
たまにはこうやって、ふたりでゆっくり景色を見ながら歩くのも良いかもしれない──。
なんて柊が考えてしまったのは、きっと春の暖かすぎる陽気のせいだ。




