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9話 静かに見守る

廊下の空気は冷えていた。


だが、ビアンカの呼吸は熱い。


扉を閉めたあとも、胸の奥の震えは収まらない。


戻れない。


あの部屋へは。


今は。


戻れば、きっと――


越えてしまう。



「……お姉様……」


小さく、名を呼ぶ。


誰にも届かないように。


唇が、まだ覚えている。


触れられた感触を。



理解していた。


最初から。


姉としてではない。


女として見ていた。


例外なく。


逃げ場もなく。



だが。


触れられる側になるとは、


想定していなかった。


望んではいた。


けれど。


現実になった瞬間、


理性が軋んだ。




「……ずるい……」


吐息が震える。


欲しかった。


触れられたかった。


だが。


求められる側になると、


制御が効かない。




令嬢の歩幅で進む。


姿勢は崩れない。


だが内側は波打っている。




柱の影。


その奥に、人影。


ヴァルディエリ当主。


静かに娘を見ている。


止めない。


声もかけない。


娘の呼吸。


歩幅のわずかな乱れ。


頬の色。


視線の焦点。


すべてを測っている。


理解している。


王子の圧。


娘の恐怖。


平民の娘が持つ影響。


そして。


娘が戻らなかったこと。


鍵をかけなかったこと。


その意味も。


逃げたのではない。


壊れなかった。


当主は、静かに息を吐く。


これは衝動ではない。


選択だ。


(賭けは、成立したか)


もしルチアが逃げれば、


ヴァルディエリ家は傷つく。


娘は壊れる。


三大貴族が動く。


すべてが崩れる。


だが。


彼女は逃げなかった。


当主は理解する。


あの平民の娘は、


娘を壊さない。


だから今は動かない。


守るために。


止めない。




ビアンカの背が曲がり角へ消える。




静寂。


屋敷は眠っている。




月光が石床を照らす。


その光の中で、


ひとつだけ確かなことがある。


娘は、選ばれた。


そして。


当主もまた、


選んだ。


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