8話 均衡
唇が離れても、熱だけが残った。
吐息が混ざる距離。
視線が絡んだまま、どちらも動かない。
逃げ場のない部屋で、呼吸の音だけが異様に近い。
「……離れて」
かすれる声。
ビアンカの指先がわずかに強まる。
だが、押し倒さない。
その触れ方には、まだ理性が残っていた。
「嫌です」
囁きは甘い。
けれど、響きの奥が震えている。
「離れた瞬間……いなくなってしまいそうで」
衝動ではない。
欲でもない。
ただの、不安。
「私はここにいるわ」
短く告げる。
だが、彼女の瞳の揺れは止まらない。
分かっていた。
言葉では届かない。
私は静かに息を吐いた。
――だから、距離を詰める。
今度はこちらから。
彼女の思考が追いつく前に。
唇を重ねた。
一瞬。
迷いなく。
ビアンカの呼吸が止まる。
瞳が見開かれる。
腕の拘束が、わずかに揺らいだ。
予想通りだった。
「……お姉様……?」
理解の遅れた声。
私は答えない。
もう一度、唇を寄せる。
今度は、わずかに長く。
「どうして……」
吐息が震える。
指先が私の肩へ伸びかけ、
触れる前に止まる。
触れていいのかすら判断できない。
「落ち着いて」
低く告げる。
「呼吸が乱れている」
自分でも驚くほど、冷えた声だった。
彼女の瞳が揺れる。
拒絶ではない。
動揺。
そして――期待。
最も危うい光。
「この方が、あなたは静かになる」
事実だけを置く。
感情を混ぜずに。
再び口づける。
甘さではなく、確実さで。
思考が白く途切れる瞬間を狙って。
小さな息。
腕の力が抜ける。
身体から緊張がほどけていく。
依存の核が崩れる音がした。
「ほら」
囁く。
「大丈夫でしょう」
ビアンカの額が、私の肩へ落ちた。
縋る重み。
先ほどとは違う力。
「ずるい……」
かすれた声。
「お姉様は……ずるい……」
抱き寄せる腕は強い。
だがもう、
支配ではない。
私は耳元で静かに言う。
「落ち着いたなら――鍵を外して」
空気が止まる。
「……え……?」
完全に虚を突かれた声。
熱と現実が繋がらない表情。
「分かるでしょう」
淡々と告げる。
「今のあなたなら、話ができる」
揺れる瞳。
キスと鍵。
感情と理性。
結びつかない接続。
私は最後に、もう一度だけ唇を重ねた。
逃げ道を塞ぐ距離で。
「選びなさい、ビアンカ」
彼女の呼吸が乱れる。
一歩、後退る。
明確だった。
攻める側の余裕は消えている。
「……だめ……です……」
拒絶ではない。
崩れかけた理性の声。
「越えてしまいそうで……」
その瞬間、すべてを理解する。
恐れているのは私ではない。
自分自身。
私は追わない。
距離を詰めない。
ただ、静かに告げる。
「私は逃げないわ」
理性が軋む音。
「……っ……」
息を呑み、
彼女はほとんど逃げるように背を向けた。
「おやすみなさい……!」
扉へ向かう足音が乱れる。
振り返らない。
扉が閉じる。
だが――
金属音は鳴らなかった。
静まり返る錠前。
鍵は、かかっていない。
部屋に残ったのは静寂と、
まだ消えない熱だけだった。




