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7話 裂け目


夜の屋敷は静かだった。


二重に閉ざされた扉の向こうで、足音が止まる。


外側の鍵が外される音。


ゆっくりと開く扉。


月光を背に、ビアンカが立っていた。


白い寝間着姿。


完璧に整えられているはずの令嬢が、今はどこか脆く見える。


「様子を確認に参りました」


形式的な声。


だが、夜の部屋でそれは建前に過ぎない。




「確認なら、昼で十分でしょう」


私は言う。


怒りはある。


けれど怒鳴らない。


理屈で動くのが私の性分だ。


彼女も、それを知っている。




「王子殿下が触れました」


低い声。


不意打ちのような言葉。


王城の光景が蘇る。


伸びた手。


掴まれた腕。


ほんの一瞬の接触。




「奪われるかと、思いました」


その声音は、激情ではない。


静かな、しかし深い恐怖。


理性で抑え込まれた感情が、かすかに滲む。




私は淡々と返す。


「軽い接触だった」



白い瞳が、まっすぐ私を射抜く。


「王族は、欲しいと思えば奪います」


理屈。


冷静な分析。


だが、その奥に焦燥がある。


彼女は一歩近づく。


距離が縮まる。


だが、まだ触れない。


「わたくしには、止めきれません」


その言葉が、核心だった。


家の力も、地位もある。


だが王族には及ばない。


それを彼女は、正確に理解している。




「だから遮断するの?」


問いは責めではない。


確認だ。


「閉じ込めてはおりません」


静かな否定。


沈黙が落ちる。


呼吸が近い。


月光が彼女の横顔を縁取る。


そして。


「越えません」


低い囁き。


私は眉を寄せる。


「何を?」


彼女は答えない。


代わりに、ゆっくりと手を伸ばす。


頬へ。


触れる寸前で、止まる。


震えている。




「最後までは、奪いません」


それは誓いだった。


理性の最後の杭。


「あなたの身体を、わたくしの恐怖で穢したくはない」


その言葉に、胸がざわつく。


欲望ではない。


恐怖が、彼女を動かしている。




唇が触れた。


一瞬。


驚くほど軽い。


奪うためではない。


確かめるための接触。


存在の確認。




すぐに離れる。


だが後退しない。


「越えておりません」


自分に言い聞かせる声。


「最後までは、いたしません」


理性が、必死に自分を縛っている。



私は動けない。


怒ることも、拒むこともできない。


そこにあるのは強引さではなく、震えだったから。



「失うのが、怖いのです」


視線が揺れる。


「母を亡くした日から」


初めて、父のいない夜の話をする。


理性的な彼女が、感情を見せる。


それだけで、この距離は危うい。




再び唇が触れる。


今度は、ほんの少し長い。


だが押し倒さない。


ドレスにも触れない。


深くもしない。


理性の線は、守られている。




「越えません」


もう一度。


「あなたが嫌うことは、いたしません」


その言葉と、閉ざされた鍵。


矛盾が、甘く痛い。




その夜、私は眠れなかった。


怒りはある。


だがそれ以上に、理解してしまった。


この子は、奪うためではなく、


守るために、歪み始めている。


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