4話 王子の手
王城の大広間は、光に満ちていた。
高く張られた天井画。
燭台の灯り。
磨き上げられた床に映る貴族たちの影。
その中心に立つには、私はあまりに軽い。
商家の娘。
それ以上でも、それ以下でもない。
「緊張なさっていますか」
隣から静かな声が落ちる。
ビアンカ・ヴァルディエリ。
完璧な微笑を浮かべた横顔に、隙はない。
「いいえ」
私は答える。
半分は本当で、半分は嘘だ。
視線は感じる。
値踏みする視線。
“平民”。
それだけで、好奇と侮蔑は十分だ。
楽の音が止む。
空気が揺れる。
第一王子の入場。
歓声はない。
だが人々は、自然と道を開ける。
それが権力だ。
王子は、ゆっくりと会場を見渡した。
そして。
私の前で足を止める。
「珍しい顔だな」
軽い声音。
だが視線は鋭い。
「フィオレンツァ商会の娘と聞いたが」
私は礼を取る。
「ルチア・フィオレンツァでございます」
「賢そうな目をしている」
王子は微笑む。
「商人は嫌いではない。利を知っている」
その言葉とともに、手が伸びる。
私の腕に。
距離が近い。
必要以上に。
その瞬間、隣の空気が変わった。
音はしない。
だが温度が落ちる。
視線が王子の手に注がれる。
氷のように、静かに。
私は自分で腕を引いた。
「恐れ入りますが、私は未熟者です」
穏やかに。
はっきりと。
王子は一瞬だけ目を細め、やがて笑った。
「遠慮は美徳だが、機会は逃すな」
言葉は軽い。
だが、意味は軽くない。
王子が去る。
ざわめきが戻る。
私はようやく息を吐いた。
「大げさね」
軽く言ったつもりだった。
だが。
ビアンカは微笑んでいなかった。
「触れられました」
声は低い。
責めるでもなく、問いでもない。
事実の確認。
「一瞬よ」
「一瞬で足ります」
即答だった。
私は彼女を見る。
白い横顔は静かだ。
だが瞳の奥に、何かが沈んでいる。
「王族は、欲しいと思えば奪います」
淡々と。
感情を排した口調。
「殿下は、あなたを面白いと思われた」
「私は物じゃないわ」
思わず言う。
彼女の視線が、ゆっくりと私へ向く。
「存じております」
静かな肯定。
「ですから、対処いたします」
「対処?」
問い返すと、彼女は微笑んだ。
社交用の、柔らかな微笑。
「ご安心ください」
それ以上は語らない。
帰りの馬車の中、沈黙が続く。
窓の外の街灯が、規則正しく過ぎていく。
「本日は、無礼がございました」
唐突に彼女が言う。
「警戒が足りませんでした」
「あなたのせいじゃない」
私は答える。
だが彼女は首を振る。
「わたくしの不備です」
その声音は、ひどく固い。
屋敷へ戻る。
門が閉じる。
いつもと同じはずの音が、やけに重く聞こえた。
私はまだ知らない。
この日を境に、警備が増えることを。
私の行動が細かく把握されるようになることを。
そして。
“対処”が、ゆっくりと形を持ち始めていることを。
王子の手は、ほんの一瞬だった。
だがその一瞬が、何かを確実に動かした。
見えない歯車が、軋む音を立てる。
その音に、私はまだ気づいていない。




