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34話 均衡の先

当主の間は、思っていたよりも狭い。


天井は高いが、机は一つ。


書類の山。


封蝋の跡。


乾ききらないインクの匂い。


椅子に腰を下ろすと、背もたれが軋んだ。


軽い音。


新品ではない。


代々使われてきたものだ。




机の上には三つの帳簿がある。


港湾税の流れ。


王城への納品記録。


宮廷催事の支出明細。




第一王子の名は、そこにはない。


だが印章はある。


代理の印。


迂回された資金。


割高で契約された酒樽。


実在しない馬車の修繕費。



私はそれを集めた。


商家の娘として。


値段の不自然さに気づいた。


契約書の紙質の違いを覚えた。


港の倉庫で、積み荷の数を数えた。


船員に金を払った。


議会書記に夜食を差し入れた。


「金は嘘をつかない」


父が言っていた。




貴族は、面子で動く。


商人は、勘定で動く。


私は両方を知っている。


扉が静かに開く。


ビアンカが入る。


足音はほとんどしない。


「東家から承認書が届きました」


書簡を差し出す。


封を切る。


署名。


印章。


文面は短い。


“ヴァルディエリ家の判断を支持する”




西家も同様。




「議会の動きは」


私が問う。


「第一王子の再審請求は退けられました」


淡々と。


「浪費の記録が決定打となりました」


私は帳簿に目を落とす。


あの数字だ。


港の積み替え手数料。


宴席のワイン代。


名目は外交費。


だが実態は賭博の穴埋め。



「証人は」




「三名、既に保護しています」


ビアンカの声は揺れない。


私は印章を手に取る。


冷たい金属。


重い。


「当主契約は法的にも問題ありません」


彼女が続ける。


「三家承認済み。王家の認可は不要」


窓の外で風が鳴る。


庭木が揺れる音。


遠くで衛兵の靴音。


私は椅子から立つ。


歩幅を測る。


部屋の端から端まで、六歩。


商家の倉庫より狭い。


だがここは王城より強い。


「怒っていないの」


ビアンカが言う。


突然だった。


「何に」


「殿下に」


私は机に手を置く。


木目がざらつく。


「怒る必要がない」


答える。


「記録がある」


破られたドレスは処分した。


だが裂け目は残らない。


帳簿は残る。


署名も残る。


「あなたが当主になれたのは」


ビアンカが言う。


「家名ではありません」


私は振り返る。



「証拠を出せたからです」


そうだ。


貴族相手に声を荒げなかった。


数字を出した。


契約書を並べた。


王城の台帳と港の記録を照合した。


違いを指で示した。


議会は、沈黙した。


反論できなかった。


「平民であることは」


私は言う。


「弱点ではなかった」


ビアンカが近づく。


今度はゆっくり。


「あなたは値段を知っている」


彼女は言う。


「人も、物も、時間も」


私は笑う。


わずかに。


「だから浪費が分かった」


第一王子は権威で押した。


私は勘定で押し返した。


静かな部屋。


帳簿の匂い。


封蝋の赤。


ビアンカが私の肩に触れる。


今度は布越し。


破れていない。



「当主」


彼女が呼ぶ。


「何」


「お疲れ様でした」


私は彼女を見る。


「まだ終わっていない」


だが。


少なくとも今日。


私は逃げなかった。


商家の娘として。


ヴァルディエリ家当主として。


外で鐘が鳴る。


夜の合図。


帳簿を閉じる。


印章を置く。


灯りを落とす。


空気は静かだ。


だが、軽い。


均衡は守られた。


数字で。


署名で。


印章で。


そして私は、


自分の名前で立っている。


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