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35話 春の帳簿

朝の光が、執務机の上をゆっくり滑っていく。


新しい当主印は、まだ少しだけ手に馴染まない。


押すたびに、金属の重みを確かめる。


「その印、強く押しすぎです」


背後から声。


振り返らなくても分かる。




「紙が凹みます」


ビアンカが淡々と言う。


代理の顔だ。


「慣れないのよ」


私は答える。


「商会の印と違って、責任が重い」


帳簿を閉じる。


港の収支は安定している。


王城への納入契約も見直した。


中抜きは消えた。


浪費の影は、きれいに整理された。


第一王子の名は、議会記録からも外された。


再審は正式に取り下げ。


凍結はそのまま。


戻ることはないだろう。




そして。


第二王子の即位が正式に発表された。


祝宴は控えめだった。


三大貴族は揃って出席した。


婚姻の話は出なかった。


誰も口にしない。


それで十分だった。


「父上は?」


私が問う。


「今朝は書庫に」


ビアンカが答える。


「“少しだけ手伝う”そうです」


私は小さく笑う。


少しだけ。


それがあの人なりの距離だ。


完全に手放さず。


完全に握らず。


昨夜もそうだった。


「数字の読み違いだけはするな」


それだけ言って、席を立った。


助言は一つ。


あとは任せる。


私は商家の娘だ。


値段を読む。


契約を見る。


港の空気で嘘を嗅ぎ分ける。


それが認められた。


家名ではない。


勘定と証拠だ。


「当主」


ビアンカが呼ぶ。


「なに」


「本日の視察は港からでよろしいですか」


「もちろん」


即答する。


王城より先に港を見る。


それが私の順番だ。


窓を開ける。


春の風が入る。


潮の匂いが混じる。


遠くで荷車の音がする。


「……似合っています」


ビアンカがぽつりと言う。


「何が」


「当主の席」


私は肩をすくめる。


「机が小さいから助かるわ」


彼女が少しだけ笑う。


その笑みは、もう昔のように尖っていない。


落ち着いている。


依存も、焦りも、ない。


「代理として、支えます」


まっすぐな声。


私は立ち上がる。


印章を箱に戻す。


帳簿を抱える。


「隣にいなさい」


それだけ言う。


彼女は当然のように歩幅を合わせる。


距離は自然だ。


触れなくても分かる。


廊下を抜ける。


父が書庫から顔を出す。


「港か」


短い問い。


「ええ」


「戻ったら数字を見せろ」


それだけ。


「はい、父上」


外へ出る。


空は高い。


港の旗が揺れている。


成り上がりと言うほど派手ではない。


ただ、机が変わっただけだ。


肩書きが増えただけ。


責任が重くなっただけ。


それでも。


私は自分の名前で契約を結ぶ。


自分の印で決める。


そして。


隣にはビアンカがいる。


王家も、三家も、港も。


すべては動き続ける。


均衡は続く。


私は歩き出す。


帳簿を抱えたまま。


潮風の中へ。





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