26話 静かな熱
いつからだったのか。
気づけば、ビアンカの方から唇を重ねてくることはなくなっていた。
それが異変なのかどうか、
最初は判断がつかなかった。
屋敷の空気は変わらない。
彼女の態度も、言葉も、礼節も、
何ひとつ不自然ではない。
ただ。
ひとつだけ。
私のベッドを使って休んでいることを除けば。
夜更け。
自室へ戻ると、
当然のように彼女はそこにいる。
白い髪を解き、
私の枕に頬を預け、
まるで昔からそうであったかのような顔で眠っている。
「……」
最初は咎めた。
令嬢としてどうなのかと。
だが彼女は淡々と答えた。
「よく眠れるのです」
それだけだった。
抱き寄せてもこない。
触れてもこない。
ましてや、口づけなど。
けれど距離はゼロだ。
吐息が触れ合うほどの近さで、
彼女は静かに眠っている。
指先を伸ばせば届く。
だが、私は触れない。
「妙なものね」
小さく呟く。
かつてはあれほど貪欲だったくせに。
唇を求め、
熱を確かめ、
何度も、何度も。
なのに今は違う。
求めてこない。
奪ってこない。
ただ、傍にいる。
その変化が、落ち着かない。
「ビアンカ」
呼んでも、返事はない。
眠りは深い。
無防備な横顔。
長い睫毛。
微かに開いた唇。
かつてなら。
この距離に耐えられなかったはずだ。
「……本当に、変わったのね」
囁きは夜に溶ける。
彼女は依存を克服した。
キスという鎖から。
衝動という熱から。
それは望んだ変化。
歓迎すべき安定。
なのに。
胸の奥が、妙にざわめく。
静かすぎるのだ。
熱を隠しきれなかった少女が、
何事もなかったかのように均衡を保っている。
欲していたはずの距離。
それを与えられてなお、踏み込まない。
「……ずるいのは、どちらかしら」
自嘲気味の笑み。
ベッドへ腰を下ろす。
沈む感触。
微かな軋み。
その音にも、彼女は目を覚まさない。
私はそっと横になる。
彼女と同じ枕に頭を預ける。
視線の先。
至近距離の横顔。
近い。
あまりにも。
それでも彼女は、何もしない。
夜は静かに流れていく。
言葉もなく。
接触もなく。
ただ、共有される体温だけが確かだった。
かつてよりも甘く。
かつてよりも危うい。
触れない距離というものが、
これほど落ち着かないとは知らなかった。




