2話 初恋
雪は降っていなかった。
だが、世界は白かった。
母の棺が運ばれていくのを、私はただ見ていた。
泣き声が遠い。
慰めの言葉も遠い。
父は忙しく、貴族たちは形式的で、屋敷は広すぎた。
八歳の私は、すでに“ヴァルディエリ家の令嬢”だった。
泣き崩れることも許されない。
「お嬢様、こちらへ」
乳母に手を引かれ、応接室へ向かう。
商家の娘が来ているのだという。
慈善の一環。
父の配慮。
私はどうでもよかった。
どうせ皆、私を腫れ物のように扱う。
扉が開いた。
そこにいた少女は、思ったよりも普通だった。
豪奢なドレスでもなく、
過剰に怯えるでもなく、
ただ、こちらを見ていた。
緑の瞳。
まっすぐな視線。
「こんにちは」
彼女は、そう言った。
敬語でもなく、媚びるでもなく。
ただ、自然に。
「……こんにちは」
私は返す。
視線を逸らさずにいられなかったのは、初めてだった。
「ここ、広いね」
少女は窓を見上げる。
「迷子になりそう」
くすりと笑う。
私は思わず言った。
「迷子になっても、誰も困りません」
それは事実だった。
私は飾りだ。
家の象徴。
母の代わりにはなれない。
少女は首を傾げた。
「困るよ」
即答だった。
「だって、あなた一人になるでしょ」
私は、言葉を失った。
慰めではなかった。
哀れみでもなかった。
ただの、当然のような声。
「……あなたは?」
「ルチア」
彼女は胸を張る。
「フィオレンツァ商会の娘」
誇らしげだった。
その姿が、眩しかった。
「私はビアンカ」
私は名を告げる。
それが、初めての対等な挨拶だった。
「ねえ、ビアンカ」
彼女は私の手を取った。
躊躇なく。
温かい。
「泣いていいよ」
驚いた。
「泣いてないわ」
「うん。でも、泣きたいでしょ」
責めない声。
決めつけない声。
ただ、見抜いている。
私は、初めて、喉の奥が熱くなるのを感じた。
この子は、私を“令嬢”として見ていない。
ただの、少女として見ている。
欲しい、と思った。
その瞬間に。
慰めてくれる存在ではない。
支配したいのでもない。
ただ、隣にいてほしい。
私を特別扱いしないでくれる人。
私の孤独を当然だと言わない人。
「また来る?」
私の問いは、驚くほど小さかった。
ルチアは笑う。
「呼んでくれるなら」
その笑顔が、胸に刺さる。
その夜、私は理解した。
母を失った悲しみとは別の感情が、胸に芽生えている。
これは憧れではない。
友情でもない。
もっと、重い。
もっと、欲深い。
八歳の私は、すでに知っていた。
これは恋だ。
だから私は、呼び寄せた。
“話し相手”として。
慈善という名目で。
父の忙しさを理由に。
けれど本当は。
ただ、私のものにしたかった。
——八歳の初恋は、静かに根を張った。




