1話
鍵は、外から二重にかけられていた。
だが、今この瞬間、私を閉じ込めているのは鉄ではない。
唇を塞ぐ熱だ。
「越えません」
吐息が混ざる距離で、ビアンカが囁く。
その声は静かで、ひどく甘い。
「最後までは、奪いません」
重なる唇はやわらかいのに、執拗だった。
確かめるように。
怯えるように。
三大貴族ヴァルディエリ家の令嬢、ビアンカ・ヴァルディエリ。
——そして私は、ただの平民の娘だ。
私を“話し相手”として屋敷へ招いた妹は、今や鍵をかけ、キスでしか安堵できない。
「……離れて」
息を取り戻そうとする私を、彼女は抱き留める。
押し倒しはしない。
壁と腕の間に、わずかな隙間を残す。
それが、彼女の言う“越えない”なのだと、私は知っている。
指先が頬をなぞり、喉元へ落ちかけて、止まる。
それ以上は触れない。
ドレスの紐にも、裾にも、決して手をかけない。
熱はある。
衝動もある。
だが踏み込まない。
「王子殿下が触れました」
声が低くなる。
昼の光景が蘇る。
王城で、第一王子の手が私の腕を掴んだ。
軽い接触だった。
だが隣に立つビアンカの空気が凍ったのを覚えている。
「奪われるかと、思いました」
その言葉は、怒りではない。
恐怖だ。
「だからって、閉じ込めるの?」
扉を振り返る。
金具が重い音を立てる。
逃げ道はない。
「閉じ込めてはおりません」
即答。
「遮断しているだけです」
理屈は冷静。
だが唇はまた、私を探す。
「越えません」
重ねながら、繰り返す。
「最後まで、わたくしのものにはいたしません」
それは宣言というより、懇願だった。
「あなたの身体を、わたくしの恐怖で穢したくはない」
指が震えている。
私を欲しがりながら、奪わない。
その矛盾が、苦しい。
「……どうして、ここまで」
問いは、責めるためではない。
知りたいだけだった。
どうしてここまで怯えるのか。
どうしてここまで、壊れそうなのか。
沈黙。
月光が彼女の白い髪を照らす。
やがて、ビアンカは目を伏せた。
「失うのが、怖いのです」
吐息がかすれる。
「王族は、欲しいと思えば奪う」
唇が、今度は優しく触れる。
縋るように。
「わたくしには、力が足りません」
その弱さを、初めて見た。
胸が痛む。
怒りよりも先に、別の感情が湧く。
この子は、守ろうとしている。
歪んだ方法で。
必死に。
「私は行かない」
気づけば、そう言っていた。
「あなたを置いて、どこにも」
その瞬間、彼女の理性が軋む。
腕の力が強まる。
だが——押し倒さない。
ドレスにも触れない。
最後の一線は、越えない。
「ずるい……」
囁きは甘く、震えている。
「お姉様は、わたくしを狂わせる」
唇が再び重なる。
今度は少し長く。
だが、そこまで。
それ以上、深くはしない。
涙がこぼれた。
自分でも、理由がわからない。
閉じ込められているのに。
奪われていないのに。
それでも、苦しい。
「泣かないでください」
彼女の声が崩れる。
「越えません。約束します」
唇が、涙を掠める。
「あなたが嫌うことはいたしません」
だが、閉じ込める。
だが、奪うようにキスする。
その矛盾が、痛い。
「八歳のあの日から」
低い声が、耳元に落ちる。
「わたくしは、あなたを手放すつもりはありませんでした」
私は息を止める。
八歳?
そんな記憶はない。
「母を亡くした日」
白い指が、私の頬を包む。
「あなたは覚えていないでしょう」
唇が、そっと重なる。
今度は、触れるだけ。
「ですが、わたくしは」
呼吸が重なる。
夜が深く沈む。
「ずっと、恋をしておりました」
鍵は、外から二重にかけられている。
だが本当に閉じ込められているのは、どちらだろう。
欲して、奪わず、越えないと誓いながら。
それでも離れない。
「お姉様」
最後に、彼女は静かに微笑んだ。
「わたくしの初恋は、あなたです」




