相沢凜々花の不幸③
「拓斗さん!!」
今まさに凜々花の家に突入しようとしている拓斗に、すんでの所で幸太朗は声を掛けることが出来た。抱き抱えたチャイロを地面に降ろし、肩で息をしながら拓斗の元へと近づくと、「来るな!!」と、怒鳴りつけられた。
「止めるんじゃねぇ! あいつは今も苦しんでるんだろう! 早く助けねぇと!!」
「待ってください! それじゃあ何の解決にもなりません!」
「じゃあどうしろってんだ!? 俺が救ってやらなきゃ。たった一人の妹なんだっ!!」
「気持ちは分かりますけど、冷静になってください!!」
二人が言い合っていると、チャイロが何故か嬉しそうに「プンプンプン!!」と間抜けな吠え声を繰り返し、幸太朗と拓斗は幾分か冷静になった。
外の騒ぎを訝しく思ったのか、凜々花の家の鍵が開く音が聞こえ、幸太朗は咄嗟に拓斗の服を掴んで自販機の陰に隠れた。
玄関先に中年の男性が姿を現し、キョロキョロと辺りを見回す様子が伺い知れる。
「プン!! プンプン!!」
——げ! チャイロの事忘れてたっ!!
さぁっと青ざめた幸太朗を他所に、チャイロが中年男性に向かって間抜けな吠え声を披露している。
「迷い犬か? リードもつけっぱなしじゃないか。ほら、こっちへおいで」
中年男性が屈んで手を差し伸べた。チャイロが嬉しそうに駆け寄ると、ガブリと思いきり手に噛みつき、男性が悲鳴を上げた。
「痛っ! なんだこのクソ犬め!!」
——チャイロ。その人が本当に凜々花さんに酷い事してたならいい気味だとは思うけど、それでも大分マズイぞ……。
と、幸太朗は青ざめた。
「伯父さん、誰か居たの?」
凜々花の声が聞こえた。自販機の陰から出て行こうとする拓斗を必死に抑え、息を顰めていると、「あ、チャイロちゃん!」と、凜々花が驚く様子が伺い知れた。
「知ってる犬か?」
「あ……うん。雪丸の散歩のときによく見かけるだけ」
「飼い主の姿は見えないが」
玄関先から出て周囲を探している様だが、自販機の影は完全に死角になっているらしく、凜々花達からは幸太朗と拓斗の姿が見えない様だった。
「連絡先わかんないし、明日の朝雪丸と一緒に公園に連れていってみるわ。きっと心配して探してると思うもの」
「しかし、この犬、俺を噛んだぞ?」
「え……?」
凜々花の反応は伯父の怪我を心配する素振りが無く、単純に人懐っこいチャイロが噛みついた事に驚いた様子だった。
「伯父さん、お願い。今日一日だけチャイロちゃんを預からせて」
「まあ、いいだろう。ちゃんと繋いでおきなさい。その代わり……」
そんな会話を繰り広げながら、凜々花と伯父はチャイロを連れて家の中に戻って行き、幸太朗はホッとしてため息を吐いた。
「……何が『その代わり』だ。あの野郎、絶対凜々花に手をだしてやがる! ぶん殴ってやる!!」
拓斗は完全に頭に血が上っている様子だった。こんな風に本気で怒ってくれる兄が居る凜々花が、幸太朗は少し羨ましく思って、不幸な目に遭っている可能性があるというのに不謹慎だと自重した。
「拓斗さん、とりあえず一旦家に帰って作戦を練りましょう。チャイロだって今凜々花さんの家に居るんです。頭を冷やさないと」
「うるせぇ! 妹が居もしねぇお前に何が分かるってんだっ!! もういい、俺が自分でなんとかする!!」
拓斗は幸太朗を突き飛ばすと、どこかへ駆けて行ってしまった。
——まずい。どうしたらいいんだ。凜々花さんを救う良い案が見つからない限り、僕に拓斗さんを止める事なんかできない。
幸太朗はまずは一旦その場から離れ、早朝散歩をしていた公園へと戻り、ベンチに腰かけた。
何度か拓斗に電話を掛けてみたが、出るどころか電源が切られてしまった様だ。『お掛けになった電話は……』のアナウンスが虚しく耳に響く。
もしも拓斗が伯父に暴行を働こうものならとんでもない事になる。犯罪者として社会的信用を完全に失うばかりか、凜々花との関係性も壊す事になるだろう。
それでは何の解決にもならないのだ。却って伯父を逆上させ、凜々花をより困難な状況に陥れてしまう可能性もある。
「一体、どうしたらいいんだ……」
頭を抱えて俯き、幸太朗は長い間沈黙した。
長い沈黙の後、徐にスマートフォンを取り出すと、ボタンを押下した。耳に当てると、数回のコール音の後、『はい』と応答する声が聞こえた。
「……崇己さん。僕です、幸太朗です。すみません、助けてください。拓斗さんが……」
幸太朗は声を詰まらせ、ぐっと下唇を噛みしめた。
電話先の崇己は何も言わず、暫く押し黙っていた。
——怒っているのだろうか。革命の指輪を突っ返してしまったくせに、都合のいい時だけこうやって頼ったから。
崇己は尚も押し黙ったままだった。幸太朗もまた、何をどう言ったら良いのか分からず途方に暮れた。
まずは謝らなければと口を開きかけた時、公園の芝生を踏みしめながら歩み寄る何者かの気配を感じ、幸太朗は顔を上げた。
「やあ、久しぶりじゃないか」
ニッと少年の様な笑みを浮かべた美青年がそこに居り、彼は耳に当てていたスマートフォンを降ろした。
幸太朗のスマートフォンから、電話が切られたプツリという音が発せられる。
「崇己さん……」
泣きそうな顔を向ける幸太朗を見下ろして、崇己は思いきり顔を顰めた。
「うわ……キミ、また鳥糞爆撃を食らったのかい? 汚いなぁ」
幸太朗は渋い顔をし、右足を指さした。
「おまけに足には犬のおしっこがかけられてます……」
「最悪じゃないか……」
崇己は幸太朗と距離を置いてベンチに掛けると、すっと長い脚を組んだ。どこにでもある公園のベンチが、一瞬にして優雅に見える。
「あの、すみませんでした。僕、折角崇己さんが渡してくれた革命の指輪を投げつけるような真似しちゃって」
「別に構わないさ。あれは元々私のものじゃないしね」
幸太朗はサッと体の向きを距離を置いて座る崇己へと向けると、「それであの! 拓斗さんが!!」と身を乗り出したので、崇己は心なしか身体をつっと幸太朗から離した。
「相談には乗るけれど、近づかないでくれるかな? 不衛生な者はお断りだよ」
「あ! はい、すみません……僕、どうしたら良いかわからなくて。拓斗さんの妹さんが大変なんです」
「ああ、知ってるさ」
崇己は腕をすっと伸ばし、腕時計を見た。
「午前九時か。今日は日曜で、相沢凜々花は高校が休みの日だね。伯父の沢野昭仁も会社が休みだけれど、伯母の沢野陽子はスーパーのパートの朝番で、もうとっくに家を出ている。沢野夫妻の間には子供が居ないから、あの家には相沢凜々花と沢野昭仁の二人きりということになるね」
崇己はサラサラとそう言い、幸太朗は血の気が退いた。もしも本当に伯父が凜々花に性的虐待をしていたのだとしたら、相当にまずい状況だということだ。
「あの、崇己さんがそこまで知ってるということは、凜々花さんの伯父は……」
「ああ、キミの予想通りさ」
幸太朗は居てもたっても居られずベンチから立ち上がった。
「こうしてなんかいられません! 僕、凜々花さんの家にチャイロを迎えに行くふりして、様子を見に行ってみます!」
幸太朗の発言に崇己が小首を傾げた。
「チャイロ? なんだい、それは」
「あ、迷い犬です。たまたま保護したんですけど、訳あって今凜々花さんの家に預かって貰っていて」
「それ、ひょっとして茶色い犬だから『チャイロ』なのかい?」
「はい」
一瞬、崇己が幸太朗を呆れた目で見つめたが、気を取り直してコホンと咳払いをした。
「一旦落ち着こうか。慌てたところで事態が好転するわけじゃないんだからね。ほら、座って」
崇己に促されて、幸太朗が渋々ベンチに腰かけた。
「解っていると思うけれど、例え彼女の伯父が性的虐待を加えている事が明るみになったとしても、傷ついた彼女の心が癒えるわけじゃない。下手をすれば更に深い傷を負わせる事にだってなりかねないんだ」
崇己の言う言葉は幸太朗には痛い程に良く理解出来た。
自分も虐待を受けて来たからだ。
例え加害者が法的制裁を受けたのだとしても、被害者が心に受けた傷や身体に受けた傷は、一生背負っていかなくてはならない。
崇己が内ポケットからジップ付きの小さなビニール袋を取り出し、幸太朗へと差し出した。中には銀色に輝く指輪が格納されていた。
「相沢拓斗が罪を犯すことなく、相沢凜々花を現状から救い出す為に、キミが出来る事は一体何か。解るだろう?」
——革命の指輪の力を使い、溜め込んだ僕の幸福で二人を救う。二人が幸福なら、僕も幸福なはずだから、指輪は願いを叶えてくれるだろう。
幸太朗は恐る恐る手を伸ばし、袋に触れるか触れないかというところで伸ばした手を引っ込めた。
若菜を死に追いやってしまったという事実が、指輪の力を使うことへの恐怖心を掻き立てるのだ。
——崇己さんをがっかりさせてしまうだろうけれど、それでも、僕は恐ろしくて堪らない。
恐怖で震える幸太朗を灰色の瞳で悲し気に見つめた後、崇己はすっと視線を外した。
「……まあいいさ。彼女の家の側まで私も行こうじゃないか。相沢拓斗が家に押し入るのだけはなんとしても止めなければならないからね」
ジャケットの内ポケットに、幸太朗の革命の指輪が入った袋を仕舞い込むと、崇己はすっと立ち上がった。
申し訳なさそうに立ち上がった幸太朗を、チラリと見て眉を寄せる。
「……でも、今のキミを車に乗せる気は無いからね?」
「解ってます」
鳥糞爆撃を食らったシャツは脱げばなんとかなるとしても、犬の粗相を受けた右足はどうにもならない。
崇己とは一旦別れ、二人は凜々花の家の側で待ち合わせる事にした。




