相沢凜々花の不幸②
「チャイロちゃん、おいで!」
「プンプン!! プンプンプン!!」
早朝の公園で、凜々花の元へと間抜けな吠え声を上げながら駆けて行くチャイロの様子を眺めながら、幸太朗は苦笑いを浮かべていた。
凜々花の飼い犬である雪丸に足を踏みつけられているのである。
犬であるとはいえ、体重三十キロ以上のホワイトシェパードに踏みつけられるのは地味に痛い。おまけに飼い主が見ていない隙を狙って足におしっこもかけられている。
完全に見下されているという事だ。
とはいえ、凜々花とはそれなりに打ち解けられた。
それというのもチャイロのお陰だ。まん丸な姿に妙な吠え声が、凜々花の心を射止めたのである。チャイロの飼い主が見つかったという連絡が来ないのは気にかかるが、今はまだ凜々花の為にも暫く家に居て欲しいと、幸太朗は自分勝手ながら思った。
拓斗はというと、凜々花に姿を見せる訳にも行かず、チャイロの散歩中は公園の丘の上にあるベンチで一人待っていたが、じっとしていると蚊の猛攻に遭うと言って、目立たない様にランニングを行っているらしい。
有事の際に直ぐに駆けつける事が出来る位置に拓斗が居るというのは、幸太朗にとって心強い。
「凜々花さんは本当に犬が好きなんですね」
「うん! 大好き!」
ハキハキとした様子で凜々花は応えると、チャイロのまん丸な頭を撫でくり回した。
その様子に雪丸は飼い主にヤキモチを妬くでもなく、凛とした様子で見守っている。
幸太朗の足は踏みつけては居るが……。
「僕、雪丸くんに嫌われてるのかな」
しょんぼりとして言った幸太朗に、凜々花が笑った。
「ごめんね、違うの。雪丸は警戒してくれてるだけで、とっても優しい子なのよ」
「警戒?」
訝し気に小首を傾げた幸太朗に、凜々花は誤魔化すように手の平を振った。
「えっと、気にしないで、大したことじゃないの!」
ここ数日、凜々花の様子を観察していたが、虐待による怪我などは特に確認できなかった。とはいえ、流石に服をたくし上げてまで見るわけにはいかないので、あくまでも『見える範囲では』ということになるが。
ひょっとして凜々花が虐待に遭っているというのは、幸太朗の勘違いなのだろうか。では、何故彼女は家に帰る事を躊躇するのだろうか。
あれから毎日、凜々花が帰宅する様子を拓斗が影から見張っていたが、家の前で暫く佇む様子は常に見られるとの事だ。
「僕なんかと関わっていて、大丈夫なんですか? お家の人、心配しませんか?」
「どうして?」
小首を傾げた凜々花に、幸太朗は苦笑いを浮かべた。
「だって、凜々花さんは年頃の女の子ですし。僕は一応男で……」
そこまで言った後、幸太朗は慌てて両手を振った。
「あ、いえ! 別に変な事しようだとか思っているわけじゃなくて! ただなんか、大丈夫なのかなって気になっただけというか!!」
妙な誤解をされてはまずいと、焦りまくる幸太朗に凜々花はクスクスと笑った。
「平気よ。幸太朗さん、凄く良い人だもの。それに、『この時間だけ』は私の自由時間だから」
凜々花の言った『この時間だけ』という言葉がやけに引っかかる。では、それ以外の時間は自由ではないという事なのだろうか?
幸太朗はもう少し踏み込んで話してみることにした。
「でも僕、児童養護施設出身なんです。その、人によっては偏見を持つ人もだっていますし」
幸太朗にとっては、施設出身者であるということを伝えるのはなんら抵抗のない事だった。実の親の下で虐待されながら育った日々に比べれば、例え愛情を与えられず、周囲からの虐めに遭っていたのだとしても、施設での生活は随分とマシだったからだ。
この話題を出そうと思ったのは、凜々花の兄である拓斗が施設に入所していたという事を、凜々花も知っているはずだからだ。
年に一回程のペースであるとはいえ、凜々花の方から拓斗にメールを送っていた為、兄に対して偏見を抱いているとは思えない。
「幸太朗さんもそうなの? 私の兄もそうなのよ。偏見なんか無いから大丈夫よ!」
僅かに凜々花の声の調子が甲高くなった。嬉しそうに瞳を細めるその様子から、幸太朗に対して親近感が湧いたようだ。
「私だけ伯母の元に引き取られたから、兄の事はずっと気になっているわ。それに、二人一緒に来れたらどんなにか良かっただろうって思うの」
幸太朗は、凜々花の言った『二人一緒に』という言葉がやけに引っかかった。
勿論、兄妹一緒に引き取られる事を望むのはなんら不思議なことでもない。だが、凜々花は『どんなにか良かっただろう』と言葉を続けたのだ。
それは、彼女がどこか助けを求めているような雰囲気を感じ取れた。
「幸太朗さん。施設って、どんな所なの? 兄には聞きづらくて」
「うーん……。学校の延長みたいなところ……ですかね」
当たり障りの無い回答をしたものの、凜々花は興味津々といった風に幸太朗を見つめた。
今時の女子高生といえば、取り留めのない話を自分勝手につらつらと話し、会話の途切れを嫌うかのように息つく暇すら相手に与えない者が多いが、凜々花は口数が少なく嫌に落ち着いて見えた。
こうして幸太朗と居る時間に、一度としてスマートフォンを取り出す素振りが見られないのだ。
まるで、連絡がきていることを確認するのを恐れているかのようだ。
「学校かぁ。家に帰った後もお友達と一緒なら賑やかね」
「僕が居たのは大舎制施設でしたから、人数は多かったです」
「どのくらいの期間、施設にいたの?」
「途中数か月だけ里親の元にいたくらいで、一般家庭を殆ど知らないままなんです。凜々花さんの家はどんな感じなんですか? 伯母さんに引き取られたって言っていたけれど」
凜々花の表情が僅かに強張った。
「伯母さんには、凄く良くして貰っているわ」
頼りなさげな声でそう言うと、凜々花は「そろそろ帰らなきゃ」と言って、幸太朗から雪丸のリードを受け取った。慌てた為か、自分の足にもつれる様に地面へと転びそうになり、幸太朗が咄嗟に手で支えた。
「触らないで!!」
悲鳴の様に凜々花が叫んだ。幸太朗が驚いて手を離すと、凜々花は怯えた様な泣きそうな瞳を向け、「ごめんなさい!」と謝って逃げる様に去って行った。
呆然としながら幸太朗は走り去る凜々花の後ろ姿を見送った。
思えば、凜々花は幸太朗の側に極力近づこうとしなかった。犬のリードを手渡す時も、手が触れない様に注意深く気を付けている風だったのだ。
同様の素振りをする少女を、幸太朗は施設の中で目にしていた。そして、その理由についても偶然ではあるが耳にしたことがあったのだ。
凜々花の態度は彼女達と似ている……。
幸太朗はスマートフォンを取り出すと、拓斗へと電話を掛けた。待ちわびていたかのように直ぐに出た拓斗に、幸太朗はゆっくりと落ち着いて言葉を吐いた。
「拓斗さん。凜々花さんが置かれている状況が、なんとなくですが解りました……」
できることなら、勘違いであって欲しい。そう願いながら、幸太朗は続けた。
「彼女は恐らく、伯父に性的虐待を受けています」
電話先の拓斗は無言だった。
「僕の勘違いならいいんですけど、凜々花さんには男性を極端に恐れている様子が見受けられます。それに、年齢不相応なあの服装。もしかして、小児性愛障害の伯父から……」
ブツリ。と、電話が切られる音が聞こえた。幸太朗は背筋にヒヤリと冷たい物が落ちる感覚を味わった。
——失敗だった。電話なんかじゃなく、直接伝えるべきだった! もしかしたら拓斗さんは、凜々花さんの家に向かったかもしれない!!
幸太朗は慌ててチャイロのリードを引き、拓斗を止める為に向かおうとした。
「プン!! プンプンプン!!」
チャイロが必死の抵抗をし、踏ん張って進もうとしない。無理に引こうとすると、豚の様に「ブーブゥー」と鳴くので、仕方なく抱き抱えて連れて行こうとすると、ポンと勢いよく駆けて逃げ出した。
「ちょっ!! チャイロ!! 待ってったら」
リードを掴んでいるのに捕まえる事ができないという、間抜けな追いかけっこを暫く繰り広げた後、どうにか捕らえる事ができた。
息を切らせているうちに久々に鳥糞爆撃を肩に受けたものの、凹んでいる暇なんか無いと自分を振るい立たせ、急いで凜々花の家へと向かった。




