5日目-1
不可解な巻き戻しから数日が経った。いまだ戦争を止めるための行動はおろかマリスレイスの現状把握もできていない。すぐにでも方策を練りたかったが、魔法の訓練やこの世界についての勉強でそれどころではなかったのだ。
初歩の魔法は力の落ちた今でも難なく扱えるし、ひとまずこれだけ知っていればいいと教わった事柄は全て既知のもので、無駄に時間を拘束されただけだった。できるのにできないふりをするのは意外と神経を使う。隠したい秘密があるなら尚更だ。
ここでの生活に慣れてきた一方で本来の目的は微塵も進んでいなかった。
マリスレイスとトゥバキアは遥か昔から何かと折り合いが悪く戦争が絶えなかった。ユイが召喚される二年前に講和条約が結ばれひとまずの平和は得たが、例の戦争でそれも泡と消えた。
あの戦争は様々な要因が複雑に絡んで勃発した。ユイの召喚後一番最初に起きた事件は今から一か月後だ。
<エーデの裂け目>と呼ばれる、国境の三分の一に渡り両国を隔てる奈落の崖。その両岸を繋ぐ交易路を架橋する一大共同事業が行われていたのだが、トゥバキアのせいで完成間近で中止してしまったのだ。そして間の悪いことに魔獣を使役した魔族が単身攻めてきて、マリスレイス側に多大な被害が出た。
橋とその周辺には結界を張る予定だったため、滞りなく完成していれば橋上の門塔に逃れて身を守れた。
マリスレイスはトゥバキアのせいで無辜の民を失ったのだ。国の上層部だけでなく国民にまでトゥバキアへの敵対感情が広がったのは言うまでもない。
同じ轍を踏んではならない。まずは一か月後の魔族襲撃を阻止するのだ。
そのためにはあまり猶予がない。
内心の焦りを抑えきれず、王城の廊下を歩くユイの足取りは急いた。まずはやはり、マリスレイスの現状を知らなければ始まらない。でもろくに身動きもできない状況でどうすれば、と先ほどから思考は堂々巡りだ。
そのせいで反応が遅れた。後ろから声をかけられて振り向けば、見知らぬ貴族が恭しく絡んできた。
「もしや貴女は異世界からおいでくださった噂の聖女様でしょうか」
「え、はい。まぁ」
「やはり! その特別な黒髪と黒い瞳。遠目からでもその神々しいお姿に感激せずにはおれませんでした」
「あ、うん」
前のめりな貴族から逃れるようにユイは上体を仰け反らせた。部屋に籠っていてもいい案が浮かばないため適当に外に出てからずっとこんな調子だ。行く先々で絡まれる。
中には救世主に感謝を伝えたいだけの善良な者もいたが、大半は救国の聖女とお近づきになりたい野心家だ。あの手この手でユイを褒め称えてくる。こちらの世界に来て間もない頃ならともかく、称賛も下心もたくさん浴びてきた今は立て板に水だ。考えなければならないことが山ほどあって忙しいのにまたか、とうんざりするのみである。
ユイの冷めた目に気付いたのか、静かに控えていたユイ付きの侍女――もとは王城の使用人だったらしく、大聖堂から共に移ってきた――がすっと前に出た。侍女ごときの無礼な態度に片眉を吊り上げた貴族は、彼女の顔を見るや一転して顔を青ざめさせた。
「あ、貴女は……! や、その……では仕事があるため失礼いたします、聖女様」
冷や汗を滲ませて笑みを取り繕い、そそくさと立ち去る。掌握すべき聖女よりつんと澄ました侍女の方をしきりに気にしていた。他人事ながらそれでいいのか、と呆れてしまう。
実は彼だけではない。なぜか出会う貴族みな同じ調子だった。
ユイは数日前のレヴィンとのやり取りを思い出した。
「出歩く時はその侍女を連れて行けばいいよ。警備の手厚い王城内だから問題ないだろうが、念の為。君のその容姿は目立つからね」
「侍女? 護衛じゃなくて? あ、いや彼女を疑ってるわけじゃないんだけど」
「大丈夫。彼女一人がいれば十分だよ」
そう言ってレヴィンは悪戯っぽく口端を持ち上げた。
あれは身の危険に対してではなく、貴族の挨拶波状攻撃を見越しての発言だったのだろうか。それにしても存在だけで目上の貴族を黙らせてしまう侍女とはいったい。
謎は深まるばかりだ。レヴィンに尋ねてもはぐらかされるし、そんなに知りたいならと甘い声で変な交換条件を出された。下手に出てまで知りたい情報でもなかったので、ユイは素っ気なく断った。
「ユイ様。こちらの通路から参りましょう」
「え? 城門に行くならこっちからの方が近道じゃありませんでした?」
「もこもこの羊を見てみたいと仰っていたでしょう。時間が合えばお見せするようにと殿下から仰せつかっております。この時間ならまだ羊舎に戻す前でしょうから、よろしければ。あと私相手に敬語は不要です」
「そう言われてもっ。だって私より年上ですよね?」
十六歳のユイよりわずかに身長が低く、童顔で正確な年齢は推し量れないが、二十歳前後なのは間違いない。レヴィン以外の年長者に砕けた口調で接するのは抵抗があった。
「無理にとは申しません。ですが変に畏まる必要はないと覚えておいてください」
「は、はい。うん、分かりました。慣れてきたらそのうち」
敬語と砕けた口調が混じり合ったおかしな返事をすると、侍女が淡々と頷きを返してきた。凪いだ瞳の奥に満足げな光が薄っすらと見えた。
彼女が提案した道へと角を曲がった時、当初進もうとしていた道の先に新手の貴族の姿が見えた。すぐに視界が遮られてよく見えなかったが、どこかで見た顔だった。あれは確か上級貴族、いや第一王子の――。
と、その時。視界の端を懐かしい影が過った気がした。弾かれたように振り返る。
「ユイ様?」
「ごめんなさいっ」
怪訝そうに足を止めた侍女を置き去りにしてユイは走った。大理石の床に硬質な靴音が荒々しく跳ねる。
口から飛び出そうなほど心臓が激しく暴れている。それは決して全力疾走のせいだけではない。
『止まるッス! アンタのことは殿下に頼まれてるんス!』
耳裏に切羽詰まったあの時の声が蘇った。




